★ あなただけの忠実な犬 ★ 近藤亡き後、土方は片魂と一緒に、近藤がこれまで担っていたお役目もほとんどそっくり引き継ぐことになった。それは誰かに決められたことでも押し付けられたことでもなく、土方自身で決めたことである。 現役の愛獲を引退した後は雷舞小屋にふらりと出没したりと、傍から見れば気ままに暮らしていたように思えた近藤だが、実はいろいろ重要な任務を担っていた。全体的なイメージ戦略といったものだけではなく、雷舞に来たお偉い役人のご機嫌取りから、新人発掘、雷舞会場の手配、様々な業者との交渉まで―――近藤が笑顔で何気なくこなしていた仕事が、代わりにやってみれば大変な労力の要るものだということを、土方は実際に引き受けてみてから心底実感した。 土方が引き継いだ仕事は、近藤がそれまで築きあげてきた信頼関係のおかげですんなりと進むものもあったが、そううまくはいかないものもあった。たとえば雷舞会場を借りる際、本番前稽古のために会場を朝早くから開けてほしい、などという頼みは近藤相手なら快諾されたのだろうが、土方が同じことを頼んでも何かと理由をつけて渋られることがあった。 そうした輩は何か複雑な事情があるというよりも、単に現役の最高愛獲である土方に頭を下げさせて「そこをなんとか、お願いします」という懇願の言葉を引き出すことに快感を覚える、ただの悪趣味な嫌がらせがしたいという者がほとんどだった。しかし、土方本人は遊ばれていることにも気づいていないため、「やはり近藤さんに比べると自分はまだまだ人望が足らないのだ」と思うだけであった。そうやって生真面目な美丈夫が困り果てて陰鬱な表情を浮かべるところがまた相手の嗜虐欲を引き出してしまうのだが、気づいていないのは本人ばかりである。 こういう場は沖田のほうがもっとうまく立ち回りそうなもので、沖田本人も「僕も何か手伝いますよ」とたびたび声をかけてはいるのだが、土方としてはそのような嫌な思いをするかもしれない任務を沖田に押し付けるわけにはいかないと思ってしまい、結局自分で抱え込んでしまっていた。 ★ ★ ★ その日も土方は次回の新選組の雷舞のために、会場の支配人に頭を下げてきたところであった。もともと設営などの手間を考えて三日間連続で押さえてもらっていたのだが、急に「他の音楽隊から、高値を出してもいいからその日でやりたいと声がかかっている」などと言われ、慌てて相手のところまで出向いて頼みに来たのだ。頼み込んだ結果、どうにか会場は当初の予定のまま確保できたものの、帰路に着くとどっと疲れがこみ上げた。 いつ誰に見られるかもしれない場所では最高愛獲としての毅然とした振る舞いに気を付けているものの、夕暮れ時の人気のない裏通りでは、土方の歩みは自然と重くなった。 実際は何も土方の非ばかりではないのだが、いつも明るくおおらかで、業者や役人とのやりとりも自然にこなしていた近藤に比べると、こんなことでいちいち難儀している自分はまだまだ未熟で、近藤には到底及ばないのだ、とあらためて思い知らされるようだった。 とりあえず明日からまた鍛錬に励まねば……と土方が思ったそのとき、夕焼けで赤く染まった景色の中、視界の端をひときわ赤いものが通りすぎた気がした。どこか異質な雰囲気を感じとり、土方は咄嗟にその方を見遣った。民家の裏にかごが乱雑に重ねてある、その物陰で何かが動いている。怪しい者か、と反射的に刀に手をかけたところで―――よく知った顔が陰からひょこりと現れた。なんてことはない、燃えるような赤い髪に赤い着物。今や京の町では知らぬ者のいない志士、坂本龍馬である。 「なんだ、坂本か。驚かせるな。しかし、こんなところでどうしたんだ?」 土方が尋ねると、龍馬は土方の顔をじっと見つめて、嬉しそうに一言、「わん!」と鳴いた。 「……今、何と言った?」 問いに対して、龍馬はまた「わん」と一言で答えると、今度は勢いよく飛びついてきた。土方は少しよろめきつつもどうにか転ぶことなく龍馬を抱きとめたが、しかし、今の「わん」とは、まさか。土方が脳裏によぎった可能性を確かめようと、なんだか落ち着きのない動きをしている龍馬の顔をのぞきこもうとしたところ、あろうことか、龍馬は土方の頬をぺろりと舐めた。 「な、なにをする!ふざけるんじゃない!」 土方が大きな声で怒鳴ると、龍馬は「きゃん!」と鳴いて、怯えたように目をぎゅっと閉じて身をすくめた。そのしぐさがあまりに哀れで、土方は反射的に「いや、今のは違う!」と謝った。 「すまない。怒ってはいないんだ……ただ驚いただけだ。だからそう怖がるな」 「くぅん」 怯えさせてしまったことをわびるように、頭をわしゃわしゃと撫でてやる。いきなり頬を舐められたことには動揺したが、土方はこの状態の龍馬に見覚えがあった。以前、まだ龍馬たちと敵対していたころにも、催眠術とやらをかけられて自分を犬だと思いこんでしまった、こんな状態の龍馬にじゃれつかれたことがあった。 「お前、また妙な術をかけられているのか?」 「わん!」 今の龍馬が土方の言うことをちゃんと理解しているとは思えないが、ついいつもの調子で話しかけてしまう。龍馬も犬の鳴き声ではあるが絶妙なタイミングで返事をするので、土方は自然と今のが肯定の意味の返事であるかのように受け取った。 そして土方は龍馬に抱き付かれたまま、やわらかな髪をよしよしと撫で―――さてこれからどうするべきか、と考えた。 この状態の龍馬をそのまま放っておくわけにはいかない。どうにか桂のところへ届けなければ―――と思ったところで、桂の屋敷がここからそう近くはないことに気が付いた。さらに、日ももう暮れかけている。反して、新選組の屯所はこのすぐ近くであった。 ―――今から桂の屋敷に届けるのは難儀だな……それにしてもこの髪は、本当にさわり心地がいいな……本当に犬を撫でているかのようだ…… 今の状態はさすがに異常ではあるが、坂本龍馬は催眠術をかけられていなくても、もとから人懐っこい犬のような男だった。彼を知れば知るほど、土方はそう思った。普段の振る舞いからも、嬉しがっているときはちぎれんばかりに振る尾が、しょげているときは垂れた耳が見えるように思えたものだ。そのたびに土方は何か動物好きとして胸が疼くような思いにさせられたが、いくら犬に見えるからと言って成人男性を犬のように撫でたり抱き上げたりしていいわけではない。そのため今まで龍馬に対する説明しがたい衝動を、人知れず何度か押し殺したことがあった。 そして、土方はもはや無意識に龍馬の頭を一心不乱に撫でくりまわしながら、「よし、今の状況ではやむを得ない、坂本の安全を考えて、屯所で一晩保護してやろう」と判断した。いつまで術が効いているかわからないが、明日の朝になっても戻っていなかったとしても、朝の人目に付かないうちに桂の屋敷に送り届ければ問題ないだろう。 ただ、あとから思えば、この時は魔が差したんだ、としか言いようがなかった。 ★ ★ ★ 龍馬に新選組の外套を頭からすっぽりかぶせ、小脇に抱えるようにして、屯所の裏門から敷地内に入った。そんなどう見ても怪しい土方の姿を見た若い見習いが、いったい何があったのかと驚いた顔で見てくるので、「不審な者がいたので取り調べを行う。ただ、まだ確定していないから、他言はするな」と土方が真剣な表情で告げると、見習いは心配そうにしながらも、局長から直々に秘密の共有を命じられたことに若干興奮した面持ちで頷いた。 幸い土方の部屋は執務室も兼ねているので、ほかの隊士の居住スペースとは少し離れていた。沖田だけは何の断りもなく入り込んでくるが、今日は午後非番なのでどこかに出かけると言っていたはずである。まだ戻っていないといいのだが、と土方はあたりを慎重に見回し、沖田の姿がないことを確認した。催眠術をかけられた龍馬を保護しただけなので、沖田に見られても何もやましいことはないはずだが、土方の胸の奥には妙な罪悪感があった。屯所に隊士以外の者を連れ込むこともそうだが、それ以上の何かが。 それに、沖田に見られたら、何を言われたものかわからない。きっと「保護とか言っちゃって、土方さん、ただ犬になったトサカくんを連れて帰りたかっただけでしょう?」などとうるさくからかわれるのだ。沖田にそう言われるところがまざまざと想像できて、「いや、俺はただ状況からこれが最善だと判断しただけだ」と土方は改めて自分に言い聞かせた。 裏庭から部屋に入り、ふすまを閉めると、龍馬の頭にかぶせていた外套を取ってやった。龍馬は見慣れない部屋の様子にきょろきょろとあたりを見回してしていたが、土方がいるからか特に不安はなさそうだった。そして土方が床に座ると、膝の上に縋りつくようにしてくっついてきた。また頭を撫でてやると、龍馬は満足げな声を出した。 そんな振る舞いを見ていると、もう、土方には龍馬が犬にしか見えなくなってきた。そして、こうして部屋で落ち着いて柔らかな髪をわしゃわしゃと撫でてやっていると、今日一日にあった嫌な出来事が不思議とすべてどうでもよくなってくるような気がした。 動物好きである故、以前から犬を飼いたい気持ちはあった。しかし新選組局長という多忙で明日をも知れない身では、自分と他の隊士の命を守るだけで精一杯である。無責任に動物の命など預かることはできない。でも今の龍馬なら、こうして一晩くらい撫でていたって、別に問題はないはずだ。 傍から見るとただ膝にすがりついてくる男を幸せそうに撫でまわしているという奇怪な図なのだが、当の土方はそんなことには気づかず、だんだん満たされたような気分になってきた。 しかし明かりを灯した部屋の中でよく見ると、催眠術をかけられてからいったいどこをほっつき歩いてきたのか、龍馬はかなり汚れていた。髪は櫛でとかしてやると大分ましになったが、顔や手足には泥がついている。 できれば風呂に入れてやりたかったが、内風呂は部屋から少し離れているため、誰にも見られずにたどりつくのは難しい。しかも風呂を沸かすのにも、誰か他の隊士の力が必要になる。せめて湯でも汲んできて汚れたところを拭ってやって、ついでになにか食べるものの用意も頼んでこよう―――と土方が立ち上がって「ちょっとここで待っていろ」と告げたところ、龍馬はその意図を解さず、土方のあとをついて来ようとしてきた。 「ダメだ、お前はここで待っていろ。待て、だ」と何度言っても、龍馬は不思議そうに首を傾げるだけである。なぜわからないのか、と土方がいらだちを覚え始めたところで急に、 ―――そうだ、坂本はまだ「待て」を教わっていないのだ! と気が付いた。そのひらめきは稲妻のように走り、土方の燃えやすい特訓魂に火を付けた。 「よし、特訓だ、坂本!」 「くぅん?」 土方は以前こっそり買って、飼うあてもないのに読んでいた犬のしつけの指南書を取り出すと、「待て」の項を開いた。「待て」は犬のしつけの中でも基本中の基本である。―――最初は座らせて、少し離れてみて、動かずにいたらほめてやる。そして少しずつ離れる距離を大きくしていく。ただそれを辛抱強く繰り返せばいいだけだ。 それから半刻ほど、「待て」の特訓は続いた。途中で龍馬が飽きたりしたが、土方が根気よく続けた結果、どうにか龍馬は「待て」を覚えた。しかも、土方の姿が視界から消えても(うずうずと今にも動きだしそうではあるが)命令に反することなくちゃんと待っていられるのである。さらに、待っている間も土方の発言はちゃんと一言も聞き逃すまいと集中している。指南書に「待ての間も飼い主の動向に集中しているのは、飼い主との信頼関係が成り立っている証拠」とあったので、土方は特訓の成果に胸をうちふるわせた。これはもう名犬の予感しかしない。 「偉いぞ!坂本!やっぱりお前はすごい男だ」 土方は龍馬を大仰に褒め、さっそく龍馬を部屋で「待て」のままにさせると、廚から熱い湯を桶に入れて部屋に持ち込み、ついでに片づけなければならない書類があるため夜食に握り飯を多めに用意してくれるよう、食事当番の者に頼んだ。 ついでに気になったので沖田の姿を見かけたかと聞くと、どうやら既に夜も更けているのに沖田はまだ帰って来ていないらしい。それはそれで注意が必要だとは思ったが、どうせ沖田のことだからどこかで甘いものでも食べているのだろう。今日に限っては、沖田の不在は幸運としか言いようがなかった。 それから土方は龍馬をきれいにしてやろうと、湯で手足を拭いてやり、埃っぽい着物を脱がせ、そのままの流れでなんとなく下帯もほどいてやったところで、ものすごく今さらではあるが龍馬が犬ではなく大人の男であることを急に思い出した。ほどいてしまった下帯を片手に、何かこれは非常にまずいような気がする、と思ったのだが、いや、おかしくはないはずだ、総司が幼い頃はこんなこともよくあったじゃないか、と自分に強く言い聞かせた。しかし一度外してしまうともう他人に下帯を締めてやるのが難しかったので、仕方なく龍馬にはそのまま浴衣を着せた。龍馬は服を脱がされても嫌がることなく、土方に構われているだけで楽しそうにしており、そのことで余計に土方はどこか後ろめたいような気がした。 その後、また待てをさせてから廚に握り飯を受け取りに行き、龍馬にも食わせてやると、もう結構な時間になっていた。 土方は龍馬の分の布団を部屋の隅に敷いてやり、自分はまだ片づけなければならない書類作業が残っていたので文机に向かった。 龍馬に「先に寝てていいぞ」と声をかけはしたものの、龍馬は布団には向かわず、座る土方にくっついて寝そべった。そばで寝ているだけなら邪魔にはならないだろうと思い、好きなようにさせていたが、ときどき撫でてほしそうに土方の筆を持つ手にちょっかいを出してくるので、字が揺れてしまうことが多々あった。そのため、土方もいくつか仕事が終わったところで見切りをつけて、今晩は程々にして寝床につくことにした。それに明日は早く起きて、龍馬を桂の屋敷まで送り届けなければならないのだ。 しかし、いざ寝ようとすると、また別の問題が発生した。龍馬には用意した布団で寝るように言い、土方が部屋の反対側に敷いた別の布団に入ろうとすると、どうしても龍馬が土方のほうへ来てしまうのである。さっきの「待て」はちゃんと聞き分けよく覚えたというのに、こればかりは譲れないとでも言うように、強情に一緒に寝ようとしてくる。無視すると土方の足元で布団の上に丸くなって寝ようとしたので、さすがにそれでは風邪を引いてしまうと思い、土方はしかたなく布団を捲って龍馬を中に入れてやった。 並んで横になると、明かりを落とした部屋の中でも、龍馬の瞳がすぐ近くで、まっすぐにこちらを見ているのがわかった。土方のことを信頼しきった瞳だった。 ふと、今の龍馬の瞳に映っている自分は、新選組の局長でもない、最高愛獲でもない、何者でもないただの男だ、と土方は思った。 今のようにおかしな催眠術をかけられていなくても、もともと龍馬はそういう男だ。相手がどんな立場の人間であろうと、変わらず接することができる。まぶしくて、あたたかい存在。たとえ土方がなにか彼の立場に合わないようなことを言っても、そのまま受け入れてくれる。 でも、土方は違った。いくら自由になることを、ロックを知ったとしても、土方には自分の身分や立場を忘れて心のままに振る舞うのは、非常に難しいことであった。 しかし、今の龍馬相手なら何も気にせず、思うままに接することができる、と土方は思った。今この部屋には他に誰もいないし、ましてや龍馬はなにもわからない犬なのだから。 そう思うと突然、胸の奥からこみあげるような何かを感じ、その衝動のままに、土方は坂本、と小声で名を呼んだ。龍馬は変わらずに土方が次に言うことを聞きのがすまいと、じっと耳を傾けている。 「……近藤さんが、いないんだ」 龍馬の耳元で、ふと思いのままに零した言葉は、自分自身でも意外なものだった。 近藤が世を去ってから、もう随分経つ。悲しみから立ち直るのには時間を要したが、そのことにはもう気持ちに蹴りをつけて、次の未来へと進んでいるはずだった。受け継いだ仕事はつらいことも多いが、その愚痴が言いたいわけではない。それは自分が未熟なせいで、これから鍛錬でどうにかするべきことだ。 それでも、ただ、あの人がもういないのだということを、どんなに前に進んでもふと胸のどこかに穴が開いたように時折感じるせつなさを、それだけのことを、ずっと誰かに告げたかったような気がした。局長としてではなく、愛獲としてではなく、ただの男としての、気持ちを。 龍馬は土方の発言を理解してはいないのだろうが、流れてもいない土方の涙を拭うように、また頬を舐めてきた。今度は土方も嫌がらず、目を閉じて龍馬のしたいように任せた。 そのまま土方が龍馬の背に腕を回して抱きしめると、龍馬はくうん、と甘く鳴いて、幸福そうに身をよじらせた。 「あたたかいな、お前は」 ずっとこのまま体温を感じていたい、という幸福感に満たされながらも、今この瞬間に、龍馬がいつものように自分の名を―――あの馬鹿げた愛称で呼んではくれないだろうか、という思いが土方の頭を過った。龍馬が元に戻ってしまったら、もうこんな大胆な振る舞いはできないので、矛盾した願いであることは自分でも自覚していた。 その代り土方は、龍馬をいっそう強く抱きしめると、胸の、ちょうど片魂の上あたりに唇を寄せて、自分から、坂本、坂本、と何度も呼んだ。 「坂本、今だけでいいから、そばにいてくれ……近藤さんがいないんだ」 くすぐったかったのか、きつく抱きしめすぎたのか、腕の中の龍馬が戸惑ったように身じろぎしたが、土方は腕の力を緩めなかった。 そして、心地よい体温を感じ、ゆっくりと訪れる深い眠りに落ちていきながら、土方は、誰かが自分をやさしく呼んだような、そんな気がした。 ★ ★ ★ 新選組の朝は早い―――はずだが、いつも誰より早く起きて新選組体操に精を出す鬼の局長がまだ起きてこないということで、広間に集まっている隊士の間にざわめきが起きていた。そういえば昨日挙動不審な様子を見ただとか、仕事でずっと部屋にこもりきりで姿を見ていない、という噂もどこからか広まり始めている。 「え、土方さんまだなの?」 昨晩遅くまで出歩いていた沖田はいつもより少し遅れて起きてきて、土方さんに怒られるかなぁ、などと案じていたところでそんな事態になっていたので、ラッキーと思うと同時に心配になった。 どうすべきかとざわついている隊士たちに、沖田は「僕が様子を見てくるから、みんなは先に走り込みに行ってなよ」と一番隊組長の権限で告げると、他の者を屯所から追い出した。これで走り込みがさぼれた、というわけだが、沖田なりに土方の身を素直に案じてもいた。最近、傍から見てもどうも疲れている様子だったのだ。 ―――だから、せっかく僕が癒してあげようと思ったのに。 土方らしくはないが、どうせ遅くまで仕事をして寝過ごしてしまっているのだろうから、あとで他の隊士には「急用で朝から出かけていた」等とうまくごまかして、局長のメンツは保ってやって、それで貸しを作ろう、と沖田は考えた。 土方の部屋の前の廊下に来ると、ふすま越しに「土方さん?」と声をかけたが、中から返事はない。しかし、耳を澄ますと何かごそごそと動いているような物音はする。 「何ごそごそやってるんですか、もう朝ですよ。開けますよ」 沖田が遠慮なくふすまを開けると、そこには一つの布団で眠る土方の姿と、その両腕にぎゅっと抱きしめられている龍馬の姿があった。 沖田の時が一瞬止まる。 「……なにやってんの、トサカくん」 こちらを向いていた龍馬とはちょうど目が合った。龍馬は熟睡している土方に抱きしめられたまま、小声で「ソウちん、助けてほしいぜよ……出られないんじゃあ……」と弱り切った様子で言ってきた。 ★ ★ ★ 寝かせておいた方がおもしろいから、という理由で沖田は土方の腕をそっと持ち上げるという作業に協力し、そのすきに龍馬は土方の腕の中からどうにか逃れた。日頃の疲れがたまっているのか、土方は眉をしかめて唸っただけでまだ起きそうにない。かつては横になって眠ることすらできない緊張の日々もあったはずなのに、平和になったものだと沖田は思う。今なら寝顔に落書きをしても気づかれなさそうである。 布団から抜け出した龍馬に、沖田は小声で改めて「で、どうしてこんなことになってるの」と尋ねた。 「それが、どうしてこうなったのか、わしもよく思い出せなくてのう……」 そりゃそうだよね、と沖田は思う。 土方が最近疲れ気味だったので、龍馬をまた犬にして可愛がらせてやろうと思いついたのは、他でもない沖田であった。 それで桂に協力を仰ぎ、うまく以前のように術をかけたはいいものの、首輪をつけようとしたら嫌がって逃げてしまったのだ。急いで周囲を探したものの、遠くまで逃げてしまったようで、見つからなかった。桂は「数時間たてば術の効果も切れますし、龍馬くんのことですから、きっと大丈夫でしょう」などと呑気に言っていたので、沖田もあきらめて帰ってきたのである。 それで屯所に帰るのが遅くなってしまったし、土方に怒られるかと思ったら他の隊士から局長は今なにかの重要な書類にとりかかっているから声をかけるなと言われている、と言付けられた。そう言われたところで普段なら気にせず土方の邪魔をする沖田であったが、昨夜は歩き回ったせいで疲れていたし、わざわざ叱られに出向くのも面倒だったので「そんなに忙しいならやっぱり息抜きにトサカくん可愛がらせてあげられたらよかったな」とだけ思ってそのまま自室に向かったのだ。 そうやって沖田は土方の疲労や、逃げた龍馬の行方についてそれなりに心配していたのに、あろうことか、この事態である。 ―――普段は屯所に部外者入れるのすらも厳しいくせに、自分は僕に黙って部屋までトサカくん連れ込んで、あんなにぎゅっと抱きしめて、幸せそうな顔してぐうぐう寝ちゃって。トサカくんだって僕の首輪はあんなに嫌がったくせに、土方さんには抱かれて寝るのも許しちゃうんだ。 龍馬で土方を癒すという、結果的には狙い通りにことが運んだはずだが、どうにも納得がいかず、どちらに対してももやもやとした感情が収まらない。一つの布団で寝ていたのも別にいやらしい目的ではなく、それなりの理由があったのだろうとは沖田も察するが、何かこのままでは気が晴れなかった。 「そうだね、とりあえず……トサカくん、その浴衣をもうちょっと脱いでみようか」 龍馬の着ている浴衣は既にかなり脱げかかっていたが、沖田は肩のところに手をかけるとさらに容赦なくぐいっと引っ張った。こうなるともうほとんど帯で引っかかっているだけの状態である。 「ほえ?!」 「あれっ、トサカくん下帯つけてないの」 「こ、これはわしもようわからんのじゃ!起きたらこうなっておって……」 「うわ〜〜〜土方さんエッチだ」 「きっと何か事情があるぜよ!」 「まあいいや、とにかく、土方さんが起きたらトサカくんは『ヒジゾーさんひどいぜよ〜わしは嫌じゃって何度も言うたのに無理やり〜〜』って泣き真似しながら言ってね。そしたらそのタイミングで僕がもう一度ふすまを開けて登場して御用改めするから」 「でもわし、別にひどいことは何もされてないぜよ」 「いいから言えよ」 そんなことを言いあっているうちに次第に声が大きくなってしまい、ついには土方が目を覚ました。熟睡しすぎたのか、ぼんやりとした様子でこちらを見ている。 「あ、起きちゃった」 「ヒジゾーさん!わしは別に嫌じゃなかったぜよ!」 沖田のたくらみは失敗したのだが、ほぼ裸で余計に誤解を生みそうな発言をしてきた龍馬と、「土方さん♪おはようございま〜す♪ゆっくりお休みでしたね〜〜」と完璧すぎる愛獲笑顔で微笑んでくる沖田を見比べて、寝起きの頭でも次第に状況が把握できてきたのか、土方は十分なほど顔面蒼白になった。 そして「違うんだ総司、これはただ坂本の安全を考えたためであって、」といったような長い弁解が、爽やかな朝から延々と始まることになったのである。 ―――また、犬になっていた間の記憶は夢のようにぼんやりしているとはいえ、実は片魂の上で何度も名前を呼ばれた時に術が解けてしまった龍馬は、土方に「そばにいてくれ」と囁かれて一晩抱きしめられて寝たことにしばらく悶々とした気持ちを持て余すことになるのであった。 December.31.2014 |