会議の休憩時間中、会議室の上の階の廊下に並んだ椅子に、日本がひとりでぼんやりと座っているところを見つけた。いつも休憩中はまじめに資料の確認したり、アメリカにつかまってゲームねだられたりしてる奴だから、こんなとこにひとりでいるのはめずらしい。いや、別に、俺だっていつもあいつの行動をチェックしてるわけじゃないけどな。 日本は携帯を開いてなにやらボタンを押していたが、それもすぐに閉じて、背もたれにぐったりと寄りかかった。頭もぐらりと横に垂れて、前髪から白い額がのぞく。ぴっしりと背を伸ばしていた会議中の姿とはずいぶん違って見える。 声をかけずに立ち去るべきかと迷っていたら、日本が急にこっちを向いた。隠れようと思った時にはもう遅く、向こうから「イギリスさん」と声をかけられた。 「よう」 しばらく黙って見ていたことを悟られないよう、ちょうど今通りがかったとばかりに日本のそばまで行くと、日本はさっと姿勢を直して立ち上がろうとした。俺があわてて「いや、寝とけよ」と言うと再び座り直したが、さっきのひとりでいたときの、脱力した様子は消えてしまった。 「…疲れてんのか?」 「そう見えますか?」 「ちょっとな」 「いつもと変わりませんよ。お気遣いありがとうございます」 日本が微笑んで、俺は目を逸らした。それっていつも疲れてるってことじゃねえのかと俺が考えてると、日本が「イギリスさんもお掛けになったらどうですか」と言ったので、俺は日本からひとつあいだをあけた椅子に腰を下ろした。 廊下はやたら広く、あまり暖房が効いてないから冷たい風が通り抜ける。この階はどの部屋も使われていないのかやたら静まりかえっているが、ときおり階下から誰かの騒ぐ声が響いてきた。 どうしてここに来たんですか、と聞かれるかと思ったが、日本は何も聞かなかった。でも内心は俺のことを、あとをつけてきたと思ってるかもしれない。実際は、つけてきたわけじゃなく、休憩になってから日本の姿が見えないから、どっかに行ったのかと思って建物内をぶらぶら歩いてみたらこうして見つけたわけだ。だから、わざわざ探したって言うほどでもない。たまたま会えたんだ。それだけだ。 横目でちらりと、隣に座る日本のを盗み見た。髪に隠れて、表情はよく見えない。ふと、前にクソ髭が、俺が日本を特別扱いしてるんじゃないかとからかってきたことを思い出した。でも、俺は別に日本と付き合いたいとか、そういうわけではない。そこまで熱烈に会いたいとか、深い話がしたいとか、四六時中べたべたしたいとか、そういう類の願望はないからだ。でも、もし日本が他の奴と付き合ったりしたら、けっこうショックは受けるだろうとも思う。なんで俺が選ばれないんだとも思うかもしれない。そのへんはどうも割りきれない。 割りきれない感情とは別に、俺は正直なところ、どういうわけか、日本に対して、それなりに性欲を持て余している。「付き合いたくはないけどやってみたい」って、男友達に対してまでそういう欲望を抱いてる俺って最低だな、とは思うけど、どうにもならない。男女お構いなしのヒゲ野郎のことを変態とか言ってらんねえな。 だから俺は、自分と日本がやってるっていうシチュエーションを、何度か想像したことがある。いや、何度かっていうのは嘘だ。結構しょっちゅう考える。たとえば、会議後とかにふたりきりになるチャンスがあって、俺と日本はホテルのバーとかで酔ってそういう雰囲気になって、そのままホテルの部屋へしけこんでしまうわけだ。俺の頭の中では、ベッドの上の日本はいつもの様子はどこへやら、髪を乱して「イギリスさんっ!ああ、好きです、大好きです!」と泣き叫んで自ら腰を振る。あと、あの口から聞いてみたいのは「やめないでください」とか「気持ちよすぎておかしくなりそうです」とか。普段絶対言いそうにないセリフほどぐっとくる。それで俺は日本の腰を後ろからつかんで―――…って、会議の休憩時間に、当の本人のすぐ隣でこんなこと考えてるのって、どうなんだ。どう考えてもアウトか。 しかし本人が真横にいると、想像もリアリティの度合いが違う。家で一人でいるときよりずっと、あの腰をつかむのなんて簡単そうに思えるし、あの手が行き場をなくして俺の背中にまわされるのも、実際に起こり得そうな気がしてくる。 「そういえば、先ほどアメリカさんが―――」 突然、日本が、さっきの会議でのアメリカのふるまいについて話してきた。わりとどうでもいい内容だった。たぶん日本は、続いた沈黙を気まずく思って、気を使ってるんだろう。ただ俺は別に二人きりになってまでアメリカの話をしたいとは思ってなかったから、日本の声の響きの心地よさを受け止めながら適当に返事をした。 こういうときの日本の様子を見ると、実際の俺と日本は、沈黙が心地よいとかいう、そこまでわかりあった関係ではないのだ、というのを思い知らされる。あまりに居心地の悪い沈黙が続いたら、日本は俺がそばにいることをめんどくさいと思い始めるかもしれない。だいたい日本がこんな人気のないとこまで来たのは、ひとりになりたかった、というのもあるんだろう。俺のことを「なんでこの人、ここまでついてくるんでしょうかね」「鬱陶しいです」とか思ってたりしてな。あ、ちょっと、マジで悲しくなってきた。先に会議室戻ろうかな。いやでもせっかく二人きりだしな。 「イギリスさんのほうが疲れてるんじゃないですか」 「え?」 「さっきから、ぼんやりしてらっしゃいますよ」 「…あー、悪い、最近忙しくてな」 急に話を振られて驚いたが、さっきから頭の中でお前をバックでやるのに忙しかったんだとは言えないので、適当にごまかした。 「私も近頃は毎日せわしないです」 「そうみたいだな」 「こうも忙しいと、昔はよかっただとか、思ったりもしてしまいますね」 昔は昔で色々ありましたけど、都合のいいことばかり思い出してしまうのは年ですかね、と日本は目を細めて言った。 こうして日本とふたりでいると、俺もよく昔のことを思い出す。繰り返し思い出しすぎて、レコードだったらとっくに擦り切れているような記憶の数々。特に、あの、星が鬱陶しい夜に、こいつが、息を切らせて俺のもとに駆けつけてきてくれたときのこと。あのときとお互い、見た目は変わらないけど、服はすこし変わった。時代も、関係も、背負ってるものも変わった。それに、あのときと違って、もう、こいつにとって俺はそんなに特別な存在じゃないんだろう。今はもう、ワールドピースの時代だ。みんな仲良く。平等に。助けあいの精神を持って。それがあるべき姿であって、何より美しいとされ、称賛される。そういう時代だ。今なら、日本は誰かが星空の下でひとりで泣いていれば、誰のためにでも丘を駆け上がって友達宣言するんだろう。そう考えると、嫌な時代になったものだ。だって、俺にしてみれば、俺のためだけに走ってきた日本が、何より美しかった。 「…忙しくても、あんまり無理すんなよ」と俺が言うと、日本は「まあ、私もそうは思うんですけどね」と言って、俺はその続きの言葉を待ったが、日本はそれ以上は弱音を吐かなかった。でも何か悩みでも打ち明けられたところで、俺に出来ることなんて「大変だな」とか、ごくありきたりの感想を述べることくらいだ。 ここでもっと、こいつを心からいたわってやったり、抱きしめてやったりしたくなったら、それは愛なのかもしれない。でも、俺のは愛とか、恋とか、そんなキレイなもんじゃない。 思うに、俺はたぶん、日本、お前に希望が持ちたいんだろう。お前はいつだって俺だけを追いかけて来てくれるんじゃないか、俺を今でも誰より信頼してくれるんじゃないか、俺を甘やかして、優しくして、ダメな俺でも「大丈夫ですよ」って言ってくれるんじゃないか。そんな都合のいい、甘ったるい希望を抱いてるだけだ。いつもその希望の片鱗をお前の中に見つけたくて、きっと俺は、今日もこんな人気のない廊下まで来てお前の隣に座ってる。それで結果的に、ひとりになりたかったお前の邪魔をして、余計に気を使わせてる。ほんとにダメだよな。ダメだとわかっていても、それをお前が笑って許してくれるって、俺は期待してる。ずっと、それがエンドレスに続くんだ。 「…そろそろ休憩時間も終わりですかね」 日本が腕時計を見て言った。 「そうだな」 「戻りましょうか、イギリスさん」 「ああ」 隣で日本が椅子から立ち上がったが、俺は返事をしたものの、立ち上がることができなかった。日本は俺の顔を覗き込み、「どうかしましたか」と聞いてきた。 「いや…ただ、残りの会議、めんどくせえと思って」 「不在だと、みなさんに好き勝手に決められてしまいますよ。ほら、行きましょう」 日本が笑って黒い瞳の奥がきらりと光った。俺はそこに欲しかった片鱗を見つけたような気がして、それがたとえ気のせいであっても、ああ、駄目だ、とても抜け出せそうにない、と思った。 Feb.13.2010 |