さようなら!あなたが私のものだなどと思うのはあまりにあつかましいですね
もうあなたも御自分の価値を御存知なのでしょう
そばにいる権利を失った私からあなたは離れていこうとしています
私たちのあいだにむすばれた約束がすべて無効となったので

無理にあなたを引き留めることはできない
もとよりあなたのような人間に値する私ではありません
そんな美しい贈り物を受け取る理由は私にはなく
あなたの所有権はあなた自身が決めることです

これまであなたは自分自身の価値を知らずに私と共にいたのです
そうでなければ私を買いかぶっていたのでしょう
そしてあなたが正しい判断を下せるようになった今
私は手違いで受け取っていた贈り物を返さなければなりません

あなたと一緒にいられたことは私にとっては夢のようなものでしたから
眠っている間の至上の幸福も、目が覚めればすべて消えてしまうことでしょう







  ソネットナンバー八十七







「ロンドン万博に関係しそうな資料、ですか…?」
「ああ、当時の展示を企画してる関係者に頼まれてて。なんでもいいから探してるみたいなんだ。すぐ返すし、いますぐ出してこられるやつだけでいいから、貸してくれると助かる」

 突然日本の家を訪ねて、そんな急な依頼を投げてみる。これは嘘ではないけど、実際はそんなに今すぐ必要っていう話じゃなかった。ただ、俺が日本にそう言ってみたらどうなるだろう、となんとなく思いついただけのことだ。

 こないだの会議の後でアメリカにじゃれつかれてそれを適当にあしらっている日本を見て、別にうらやましいとかじゃねえけど、そういやこいつって今けっこう俺に対してはよそよそしいっていうか、他人行儀な感じだよな…と、ふと思った。昔はもっと親密な時期もあったはずなんだが。だから、本国の知人から資料の話が出たときに、こうやって日本のテリトリーに無理やり踏み込んだら、すこしはいつもと違うプライベートな一面が見られるんじゃねえのか、とちょっと思いついて、試してみたくなった。
 「そうですか、では探して後日お送りします」と言ってその場を終えようとした日本に向かって、俺は急いでるだのなんだの無理難題を振り続ける。その結果、

「ああ、お急ぎですか、では今日中に探してすぐお届けします。…え、今日中に持って帰りたいんですか?それは、あー、ええと、では少しお待たせしてしまうと思いますがここでお待ちいただけますか、書棚を見てきますので。いえ、ここでお待ちください、私の書棚は日本語の本ばかりなのでイギリスさんが見て面白いものはありませんよ、いえ、ほんとうに、見たってわからないですよ、なら見ても問題ないって、そういうことではなく…いえ、国家機密だからというわけではないですけど、え、いえ、けしてそんな、見られてやましい本を持っているというわけでは…そんな、違いますよ」

という具合に、断りきれない日本は追い詰められ、最終的に、いつも通される接客用の和室より奥にある、初めて見る部屋まで通してもらえた。それは書斎と呼ぶには書棚ばかりがたくさん並んでいる倉庫のような部屋で、窓を閉め切っているのと外が明るいせいで、中は異様に暗く見えた。
「あの、あまり奥のほうまでは…」
「わかってる。ここでいい」
 そう言って俺が入り口付近に腰を下ろすと、日本も「このあたりに何かはあると思うのですが」と、近くにある書棚の上のほうの段から探し始めた。それから、棚から何冊か取り出しては、「えーっとこれは…これも関係ないですね」みたいな独言をつぶやき、そのたびに床に置いていくので、積み重なった本の山はどんどん高くなり、そのうち日本がしゃがんだりするともう完全に姿が見えなくなるくらいになってしまった。
 いつもと違う姿を見たかったのは確かなんだが、俺のちょっとした気まぐれのせいで額から汗を流して本の山に埋もれてしまっている日本を見ていたらさすがに悪いことをしたような気がしてきたので
「おい、元に戻すの手伝うぞ」
と言ってはみたが、「この機にあとでほこりを払うのでそのままで大丈夫ですよ」とあっさり断られてしまった。

 ついに日本が奥のほうの書棚まで行ってしまい、棚で隠れて入口からは姿が見えなくなってしまったので、見るものがなくなった俺は一番近くにあった棚に並ぶ本の背表紙をなんとなく眺めていた。といっても、日本がさっき散々言った通り、俺には読めない文字が並んでるだけで何もわからなかったのだが、見て行くうちに一冊だけ英語の本が挟まってるのを見つけた。それは俺もひさしぶりに手に取るシェイクスピアのソネット集で、書棚から取り出してみるとかなり古いものだった。日本の私物の中から自国の作品を見つけて、俺はかなり誇らしい気持ちになった。

「おい、日本、お前、こんなん持ってたんだな」
「え、なんですか?」
 書棚の向こうから日本が顔を出したので、表紙を見せた。
「ほら、これ。ソネット集。お前のだろ?」
「あー…、そういえば持ってましたね、大分昔ですけど…英語の勉強になるかと思って買ったんだと思います」
「詩なんて、かえって難しいだろ?言葉も古いし」
「そうですね…たしか途中で諦めてしまったと思います」
「これ、俺も同じの持ってるぜ。版は違うけどな」
 積もったほこりを払うようにページをぱらぱらめくっていたら、ページのあいだから、長いことはさんであったらしい紙がひらりと床に落ちた。しおりかと思って拾うと、それはずいぶんと昔の写真だった。そして、その写真に大きくただ一人うつっている人物には、覚えがある。覚えがあるどころか、知りすぎているほどなのに、俺はなんだか幽霊にでも出会ったみたいに、心臓が収縮するのを感じた。それは、他でもない。

「…俺だ」
「どうかしました?」
「ほら、これ」

 胸の動悸を抑えながら、平静を装って、本の山から再び顔を出した日本に写真をひらひらと見せる。それは、昔の正装にきちんと収まった俺の、白黒の写真だった。
  思いがけなく過去の自分と対面とするというのは奇妙なものだ。俺の場合、外見はさほど変わらないはずなんだが、写真の中の俺はまるで別人のようで、自信に満ち溢れた、勝ち誇ったような顔で、楽しそうに笑っていた。

「…そんな写真、どこにあったんですか」
「さっきのソネット集。あいだに挟まってた」
「なぜそんなところに」
 日本はそう言うと、本の山のあいだから這い出てきた。
「いつ撮ったやつだ、これ」
 昔のことをすべて事細かに覚えているわけではないにしても、こんな写真は撮った記憶が全くなかった。背景は室内のようだが、ぼやけてよく見えないのでどこで写したかもわからない。それに、こっちを向いてはいても目線は少しずれているから、そもそも俺は撮られていることにも気づいていないかもしれない。てことは、日本は俺に秘密でこの写真を入手したのだろうか?何の目的で?まさか諜報活動か?

 日本は写真を覗き込むと、「いつ頃でしょうね。どうして私が持っているのか、思い出せないのですが」と首をかしげた。おい、お前のものだろ、しっかりしろよ、と思いながらも、写真を日本に手渡した。
「これ…服装からすると100年前くらいか?おまえと同盟組んでた時かもな」
「かもしれませんね」
 日本は写真をじっと眺めてはいるが、本当に覚えがないのか、思い出していても何かを隠しているのか、よくわからなかった。

「イギリスさんの写真ですので、イギリスさんにお渡ししたほうがいいでしょうか」
 日本はすこし写真を眺めた後、そう言って写真を伏せて俺に渡そうとしたが、そのとき写真の裏に小さく書いてある文字に気づいて、一瞬、日本の手が凍りついたように止まったのを俺は見逃さなかった。もうインクがだいぶ薄くなって消えかけている数文字の手書きの字は、日本語らしく、俺には読めない。でも日本はその文字については何も言わずに、何事もなかったかのように写真をまたすぐに表に返して、俺に差し出した。
「いや、俺が持ってても仕方ないだろ」
「そうですか…では、とりあえず元のままにしておきましょうか」
 日本は写真をまた元の通りに詩集に挟んで、積んであった本の一番上に置いた。そして「ええと、それより万博の資料、資料ですね」と言って、さっきまで探していた書棚のほうへ戻って行ってしまった。



 ほどなくして俺は日本がどうにか探しだした数冊の万博関係の資料を片手に家に帰ることになったが、なんだか、今朝家を出たときの「他人行儀な日本のプライベートな部分をちょっと探ってやろう」みたいな気分はすっかり吹き飛んでしまった。ピクニックをしに行ったら、思わぬ古代の遺跡を見つけてしまった、そんな感じだ。文字も読めないし、いつの時代のものかもわからない遺跡。発見の興奮はやまないし、考えずにはいられないが、かといって具体的には何をどうしたらいいかわからない。そんな動揺で胸の奥がずっと痺れたみたいになってる。

 家に着いたら、なんだか一気にどっと疲れてしまって、クッションを抱えてソファに転がった。頭の中をいろいろなものが通り過ぎては消える。日本の薄暗い書庫。シェイクスピアのソネット集。自信に満ち溢れていた頃の俺の写真。写真の裏に書かれた、何かの言葉。写真を見て驚き、裏に書いてあった文字にも動揺していたくせに、なんでもないふりを通して何かを隠した日本。こうやって舞台にそろった道具はどれもひどく謎めいていて、あれは一体どういうことなんだろうと考えずにはいられなかった。

 どうも落ち着かなかったので、起き上がって書斎に行き、同じ詩集を取り出してきた。シェイクスピアが恋人や意中の相手を想って書きあげたソネットが集められたこの本は、どこを開いても愛する人への讃美、恋の喜び、別離の懊悩、そんな詩ばかりが載っている。またリビングに戻ってソファに落ち着くと、適当なページを開いて読み上げた。

 あなたを夏の日にたとえましょうか
 いいえ、あなたのほうがずっと美しく穏やかです

 こんな表現、日本は使いそうもねえな、と思う。あいつはこういうのを読んで何を考えたんだろうか。まあ、途中で諦めたとは言ってたけどな。

 最後までパラパラとめくっても何も思いつかなかったので、詩集をサイドテーブルに置いて、目を閉じた。俺はこんなに色々考えてしまっているけど、本当は、特に意味なんて無いのかもしれない。あの写真は日本の知人か誰かが撮ったもので、それがたまたま日本の手に渡って、日本はただ英語の勉強をしていて。それで何かの拍子にうっかり挟んで、そのままになってしまっただけのかもしれない。もっと他に意味があったとしても、何十年も昔のことだ。とうに失われているだろう。

 それでもなぜか俺の頭には、あの暗い部屋で、詩集を開いてたどたどしくソネットを一行ずつたどる日本のイメージが焼き付いたように浮かんで、消えなかった。




 いろいろ考えてしまったせいで夜もあまり寝付けなくて、翌日も仕事がろくに手につかなかった。それで結局、夕方にはまた日本に「ちょっと今日もそっち行っていいか?」と連絡していた。昨日は驚いたせいで何も聞けずに帰ってしまったが、ひとりで考えたところで何もわからない。かくなるうえは、本人に確認するしかない。
 日本は(内心どう思ってるのかは別として)俺の訪問自体は歓迎してくれたので、いつもの庭に面した和室に通されると、率直に切り出した。
「昨日のことだけど」
「ああ、無事に使えましたか?」
「え?」
「お渡しした資料です」
「あ、そうだ、あれはあれでいい、問題ない、助かった」
 そういえば昨日懸命に日本が探してくれた資料は、持って帰ったものの、俺は気が動転してそれどころじゃなかったからすっかり忘れていた。こいつには悪いけど袋に入れっぱなしになって家に置いてある。頼まれた先にも連絡してない。いや、でも今はそれより大事なことがある。

「そっちじゃなくて、あの、写真なんだが」
「写真とは」
「昨日見つけた、俺の写真だよ。どうして持ってたのかと、どうしてあんなとこにはさんでたんだ、てのが気になって…あれから何か思い出せないか?」

 俺がそう言うと、日本はふと目をそらし、庭のほうにちらっと視線をやると、
「…申し訳ありませんが、本当に何も思い出せなくて」
と静かに言った。その態度があまりに何かまずいことでも隠してんじゃねーのかと思わせるものだったせいか、急にひとつの嫌な可能性を思いついた。
「…まさか、呪術に使ったのか?」
「え?いや、そんなことしませんよ!」
 違うのか?呪術だったらほんとにショックだ。でも可能性は捨てきれない。だって他人の写真なんて、普通それくらいしか使わないだろ。
「じゃ、呪術じゃないなら、あの字は、なんて書いてあったんだよ」
「なんのことですか」
「写真の裏になんか書いてただろ」
「ああ…あれですか」
「俺には読めなかったけど」
「なぜそんなに気にされるんですか」
「いや、べつに、その…お、俺はただ、お前が俺の悪口とか書いてねえだろうなと思って、それだけだ!」
「いえ、そんなこと書きませんよ!あれはなんてことない、ただの数字です」
「本当か?」
「本当ですよ、少々お待ちください」
 日本は立ち上がると別の部屋から昨日の本を持って来て、写真を取り出して、裏返して俺に見せた。ただ、見せられたところでやっぱり俺には読めない。
「この字はどこがどうなってるんだ」
「インクが少し薄くなっていますが、これが八で、それとこれが、十、七…なので…。八月十七日ということですかね。この写真がどういう経緯で私のもとに来たのか覚えがないのですけれど、撮影した日か、いただいた日の日付かもしれません」
 でもおまえ昨日、この文字に気づいたときに明らかに隠しただろ。あんな風に隠したからにはもっと何かの意味が絶対あると踏んでいたんだが。ただの日付なんて本当かよ、と疑う気持ちがぬぐえない。だからって俺が他にどういう答えを導き出したいのかもわからないけど、本当に、他に意味なんかないのか?
 どうも納得しきれなかったが、「もう私も年ですし、この写真もおそらく100年近くも前のことですから、当時何を考えていたのか、よく思い出せないんですよ」と言って微笑む日本からは、もう話せることは何もない、という拒絶に似た空気を感じた。


 それから日本がやっぱり写真は返した方がいいかと言ってきたが、俺は「いや、お前持っててくれよ」と断った。
「せっかく見つけたんだし、どっかに貼っといてくれよ。リビングとかお前の部屋とか…あ、別に冷蔵庫のドアとかでもいいんだ…いや、別に邪魔だったら捨てりゃいいからな!」
 俺はただ自分は別に写真はいらない、と言いたかっただけなんだが、なんだかこれだと日本によく見えるとこに飾ってほしいと頼んでるみたいで、言ってて途中で恥ずかしくなってきた。しかし日本はあまり何も思わなかったらしく、
「そうですか、それでしたら次イギリスさんがいらっしゃるまでに、ちゃんとした写真立てを準備しておきます」
と真面目に答えた。
「あ、それなら、今度俺が買ってくる」
「いいんですか?」
「あー…ほら、友好記念品だ」
 そう言うと、日本がちょっと笑ったので、俺も少しほっとした。まだ呪術の線は捨てきれないが、とりあえず今の俺たちには関係のないことだ。そう思うことができた。
「あの、もうこんな時間ですし、もしよかったら夕食召し上がって行かれますか」
「いいのか」
「ええ、あまり御馳走はご用意できないかもしれませんが」
「いや、俺は別になんでもいいんだ。じゃあ、頼む」
「では今用意しますので少々こちらでお待ちください」
そこで「あ、俺も手伝う」と立ち上がろうとしたら、やっぱり「いえ!結構です!!あの、お客様の手をわずらわすわけにはいきませんし、すぐご用意できますので!」と、今度は意外とすごい勢いで断られてしまった。

 日本がひとりでキッチンへ行って俺は暇になってしまったので、古びた本をもう一度開いた。キッチンから時折聞こえてくる物音以外は、ひどく静かな夜だった。開け放されている窓から来る弱い風と、庭の草と土の匂いが心地よい。低いテーブルに頬杖をついて詩集をめくっていたら、昨日ほとんど眠れていなかったせいか、いつのまにかうとうとと眠ってしまった。


 変な夢を見た。日本は昔の、ちょうど100年前のような格好をしていて、あの古い本に囲まれた、薄暗い部屋に座っていた。そしてまだ色褪せていない詩集の間から、俺の写真を取り出して、これまでに見たことがないような憧れと情愛に満ちた目をして、それを胸に押し当てた。
 その様子を見て、ああ、そうだったのか、と俺は夢の中で日本に話しかける。

 ああ、わかった、そうだったんだな、お前。意味がないなんて、思い出せないなんて、嘘だろう?あのとき、お前はただ、俺のことを愛していたんだろう?あの詩集に出てくるような、熱烈な感情で。だから俺の写真を持っていて、それを詩集にはさんだんだろ?英語の勉強のために買ったなんて嘘だ、400年前の詩集が何の役に立つんだよ。お前が途中で諦めたのは勉強じゃなくて、俺のことじゃないのか?本当はあの数字にだって、お前にしかわからない、他の意味があるんだろう?
 たとえ今のお前が、そのことを、もう絶対に誰にも言うつもりがないとしても。

 そう問いかけても夢の中の日本は俺の方を振り向きもせず、ただ手もとの俺の写真ばかりを見つめて、有名な詩の最後の一節を口ずさんだ。


 あなたと一緒にいられたことは私にとっては夢のようなものでしたから
 眠っている間の至上の幸福も、目が覚めればすべて消えてしまうことでしょう








Aug.17.2012
Quoted from : Shakespeare Sonnet No.18, 87