恐れ多くもスチュアート・ダイベック様の「冬のショパン」(「シカゴ育ち」に収録)を下敷きにしてますが、原型がほぼま残っておりません。。






 俺がその街はずれの寂れた通り、アビー・ストリートに足を踏み入れたのは、ほぼ3年ぶりだった。何も起きなかったらこの先もずっと自分から行こうとは思わなかったかもしれないけど、突然行かなきゃいけない理由が発生した。古道具屋で安く買った腕時計が壊れて近くの店に修理に出したら、型が古いからアビー・ストリートの通りの修理屋じゃないと直せないと言われて、それがたまたま俺が前に住んでいたアパートのすぐ近くの角にあった時計屋のことだったんだ。子供の頃、薄暗い店の中を興味本位でのぞいてもいつも人形みたいに動かずにじっと座ってるだけの時計屋のおじいさんがまさかそんな腕利きだなんて初めて知ったけど、とにかく、俺はそこに行く理由ができてしまった。子供の頃からずっと、3年前にうんざりして家を飛び出すまで兄のアーサーと二人で住んでいた、その通りに。








 アーサーに用があって行くわけじゃないから、意識する必要なんかない。もし偶然会ったって平然としてればいいじゃないか。そう自分に言い聞かせてはいたけど、やっぱりいざ住んでいたアパートが近づいてくると、アーサーにばったり会ったりしないか、もし会ったとしたらなんて言ったらいいのか、そわそわして仕方なかった。
 横目でちらっと見ると、俺が住んでいた部屋の窓が見えた。以前と変わらない、黒ずんだ冷たい壁。3階の、あの窓だ。あの部屋で長いこと俺はアーサーと暮らしてた。俺はいつもあの窓から、この通りを見下ろして、仕事帰りのアーサーの姿を待っていたんだ。

 俺とアーサーは異母兄弟で、俺がほとんど覚えていないくらい早くに両親を事故で亡くした。アーサーは俺を施設に入れるのにも遠くの親戚に預けるのにも反対して、いろいろ大変だったみたいだけど、どうにかふたりで暮らせることになったらしい。
 自分で言うのも変だけど、アーサーは俺こそが生きがいみたいな感じで、近くのショップで懸命に働いて俺を養っていた。俺も学校が終わったらまっすぐ家に帰って、友達と遊んだりすることもあまりなく、アパートの中庭で遊んだりテレビを見たりしてアーサーの帰りを待って、アーサーが帰ってきたらふたりで夕食を取るのが日課だった。
 そうやって大きい街のはずれの薄汚い通りで、アーサーと俺は閉鎖的な小さい世界を形成していた。当時はそれが当たり前で、俺はアーサーがいたからそんな暮らしが寂しいとも思わなかった。


        *   *   *


 昔からあまり変わっていない時計屋の店主(不思議なことに、昔も今も変わらずおじいさんだ)は動かなくなった時計を一通り見ると、修理が終わるのは明後日になるよ、とだけ言った。分厚い眼鏡越しに俺の顔もちらっと見たけど、近所に住んでいた子供だと気づいたのか気づいてないのかわからなかったし、俺も自分からは言わなかった。

 時計屋を出ると、つい、またアーサーの部屋の窓を見上げてしまった。窓はカーテンも閉まったままで、このままさっさと帰れば今日はアーサーに見つかることもないだろう。安心したような、ちょっと拍子抜けしたような感じだった。

 あの時計は気に入ってたけどほんとに安物だし、壊れたなら別に捨てたってよかった。あんまり認めたくないけど、わざわざここまで修理しに来たのは、アーサーに偶然会う、ちょうどいい口実ができたとも思ったからだ。もう3年も経つから、家を出たときアーサーに感じてた苛立ちもずいぶん薄れてきてる。でも顔を合わせたらやっぱりイライラするかもしれない。それに、俺が仲直りしに自分から会いに来たと勘違いして「やっぱお前は俺がいないとだめだな!」みたいなことを言い出すアーサーを想像すると、それだけでうんざりする。
 だからアーサーの様子がちょっとは気になるけど、わざわざこっちから訪ねたりしないで、偶然会って顔だけ見てハローって言って帰るくらいが一番いいと思った。でもどうせ時計を取りに明後日また来ることになったし、今日はこのまま帰ろう。
 そう思った時だった。

「すまない、すこし手伝ってくれないか」

 急に上から声を掛けられた。声だって口調だって違うから、アーサーのはずがないんだけど、それでもちょうどアパートの窓の方向からだったから、心臓が止まるかと思った。

 見上げると俺が住んでいたアパートの4階の窓から、見たことのある顔がのぞいていた。階上の部屋に住んでいた、ドイツ人の家族の一人だった。目が合うと、向こうも俺が誰なのかに気づいて驚いたようだった。

「ああ、たしか、下に住んでいた、」

 こんなところで名前を大声で呼ばれてアーサーに見つかるのも面倒だから(せっかく今日はもう会わないで帰ろうって思ったのに!)、「待って、今行くよ」と答えると、不用心にも開けっ放しになっていた1階のエントランスから一段跳びで階段を駆け上がった。3階でよく知ったドアが視界の端を掠めたけど今は無視して、さらにその上の階へ上ろうとしたら、3階から4階へあがる階段の狭い踊り場に、小さめのアップライトのピアノが行く手を塞ぐように置いてあった。
 そしてさっき声をかけてきたドイツ人はその横に立っていて、眉をしかめながら聞いてきた。

「これを運ぶのを手伝ってほしいんだが、頼まれてくれるか」


 俺が12歳くらいのころ、俺たちの上の部屋にドイツ系の家族が引っ越してきた。クラウツの野郎ども。アーサーは階上の住人をまとめて、そう忌々しげに呼んでいた。俺が同じ呼び方をすると「言葉遣いが悪い」と注意するくせに。
 金髪をオールバックにしたその男は顔には見おぼえがあるけど、しばらく見ないうちにずいぶん大きくムキムキになっていた。前はもっとひょろひょろしてた気がするんだけど。

「やあ、ひさしぶり。えーと、君、覚えてるよ」
「ルートヴィッヒだ」

 言われてみると、そんな名前だった気もする。俺が覚えていないのは、記憶力の問題じゃなくって、アーサーから聞いた話とすれ違った時に聞こえた会話くらいでしか、この家族のことを知らないからだった。普通、同じ年頃の子どもがアパートの上下の階に住んでいたら、友達にならないほうがおかしい。でも俺は昔、この男と遊んだことなんて一度もなかった。いかにも真面目そうな顔つきは、もともと俺のようなタイプからしたらとっつきにくそうだけど、それでもこんなに近くに住んでいれば自然と遊び仲間にはなれたはずだ。でも俺たちは学校の帰りなんかにたまに階段で会うことはあっても、口をきいたことすらなかった。
 アーサーが言ったからだ。あんな奴らと付き合うな、と。

「よろしく。俺はアルフレッド。どうするんだい、このピアノ。引っ越すのかい?」
「いや、今誰も弾いていなくてな。邪魔だから売ることにした」
「へえ」
「さっきまで兄と運んでいたんだが、部屋からここまで運んだだけで兄が他に助けを呼ぶとか言ったきり急にどこかへ行ってしまって、それきり連絡がつかない。それで、こんな中途半端ところで止まってしまった、というわけだ。そこまで重くはないんだが、さすがに俺一人で階段を降ろすのは厳しい。いつまでもここにいるのも他の住人の迷惑だから、早く降ろしたいと思って誰か通りかからないか探していたんだ」

 それで下を眺めていたら、それなりに体格のいい俺が目にとまったってわけか。すごい偶然だよね。俺はこのルートヴィッヒの兄がどんな人だったか全く覚えていなかったけど、ちょうどアーサーに鬱屈とした気持ちを抱えていたせいか、この話に妙に同情してしまった。そうだよ、兄というのは責任感があるように見えて、だいたい勝手なものなんだよ。

「わかった、手伝うよ」
「助かる。路上に停めてあるバンまで運んで積みこみたい」
「オーケイ、できると思うよ。俺はこっちを持ち上げたらいいかい?」


        *   *   *


 ドイツ人の一家が引っ越してきてから、上の階からたまにピアノの音が小さく聞こえてくるようになった。まさに今運んでいる、このピアノの音だ。
 曲名も知らないセンチメンタルな音楽を、俺はそんなに嫌いじゃなかったんだけど、アーサーは家の中で他の誰かの存在を感じるのが嫌だったらしく、一度キレて話をつけに上の階に行って(俺はその場は見ていない。さぞかし荒れたことだろう)夜8時以降と日曜日は弾かないという約束を取り付けて戻ってきた。

 ドイツ人がピアノを置いていた部屋は、アーサーの寝室のちょうど上だったみたいで、アーサーの部屋から一番よく音が聞こえた。でも、アーサーはリビングにいるときでも、ピアノの音が8時を1秒でもすぎると、嫌味ったらしく竹ぼうきで天井をドンドンとつついた。当時はそんなことをするアーサーが面白かったけど、今考えると、階下にそんな奴がいたらさぞかし窮屈な思いをするだろうな、とちょっと気の毒に思う。


        *   *   *


 ピアノはそれなりに重かったけど、小さめだったし、俺とそのムキムキのルートヴィッヒがゆっくり運べばそこまで無理な仕事ではなかった。それより、近くに住んでいたときは口もきかなかったドイツ人と今は普通に話せて、こうやって手伝ったりなんかしてるのが俺には妙に嬉しかった。アーサーの呪縛から解き放たれたような、冷たい過去がゆっくりと崩れて溶けていくような、そんな感じがしたからだ。

 3階のアーサーのドアの前を通るときは、今にも彼が出てくるんじゃないかと思ってひやひやしたけど、物音すらしなかった。留守なのかな、と思っていると俺の心を読んだかのように、ルートヴィッヒが小声で「彼は今は留守だ」とつぶやいた。ルートヴィッヒは気を使ってかあまりはっきりとは言わなかったけど、どうやらピアノを運んでるところをアーサーに見つかりたくないから、わざわざ留守を狙ったらしい。確かにこんな大荷物で階段を塞いでいるところをアーサーに見つかったら、真っ先に何か言われそうだ。

 途中でどこかにぶつけたり落としたりしないか心配だったけど、どうにかピアノを無事、路上に停めてあるバンに積み終えることができた。俺がそのまま帰ろうとしたら、ルートヴィッヒが何か飲んで休んでいったらどうだと言うので、彼の部屋に寄ることにした。ドイツ人一家の部屋に入るのは初めてだった。ちょうど上の階だからあたりまえだけど、俺たちが住んでいたところと同じ作りだった。リビングと、キッチン、それから部屋は小さいけど3つある。ただ、俺たちよりも小奇麗にしてあって、シンプルな家具でまとめられたインテリアだった。

 リビングに案内されて椅子に座ってると、ルートヴィッヒは携帯で兄に文句のメッセージを送った後、男所帯には似合わない手作りっぽい素朴な焼き菓子と濃い目のコーヒーを出してきた。アーサーの手作りとはずいぶん違う美味しいお菓子を遠慮なく口に放り込んでいたら、ルートヴィッヒから先に口を割った。

「しばらく見ないうちに、ずいぶん印象が変わるものだな」
「俺のこと?そうかい?3年くらいだしそんなに変わってないと思うけどな」
「最初はまったく誰だかわからなかった。メガネもかけているしな。声をかけてから気づいた」
「ふうん」

 そんなものか。自分ではあんまり感じないけど、アーサーも俺を見たら変化に驚くのかもしれない。

「今はどこに住んでいるんだ」
「今は街の反対側の、ファーウェルのほうにひとりで住んでるよ」
「たまに戻ってきたりしているのか?」
「いや、あんまりね。学校とバイトで忙しいしさ。今日も他の用事でたまたま通りかかったんだよ」

 実際は3年前に家出みたいに飛び出してから一度も戻ってきていないんだけどさ。あんまりそういうことを詳しく話すのも子供っぽい気がして、話をそらした。

「そうだ、さっきのピアノ。昔、俺たちの部屋からよく聞こえてたよ。誰が弾いてたんだい」
「ああ、弾いてたのは、前に一緒に住んでた親戚だ。もう出ていっていないから、ピアノも売ることにした」
「そうなんだ。ピアノのこと、うちのアーサーがよく怒り狂ってたよ。懐かしいな」
「迷惑をかけたな。うちにいたのも頑固だったから、なかなか譲らなかったんだ」
「いや、アーサーもほんとに短気だからさ」
「そういえば、ここからも、あそこの部屋の窓を開けているときはよく下の階の音が聞こえてたぞ」
「え、ほんとう?」

 ルートヴィッヒが、中庭に面した奥の部屋を指差した。今までそんな可能性を考えたことがなかったけど、通りで喧嘩してるのもよく聞こえるこの古いアパートなら、確かに下の階で騒いでいたらその声が聞こえたっておかしくない。俺は真っ先に「アーサーとケンカしてたのとかが聞こえてたら嫌だな」と思ったけど、そうではないらしかった。

「特に夏なんか、窓を開けっ放しにしていると、夜中にお前が泣いてるのが聞こえていた」
「えっ?俺?」
「ああ」
「うわ、そんなに泣いてたっけ、俺」
「まあ、子供のときだからな。うちではたまに話題になっていたぞ」

 ルートヴィッヒはそう言ってちょっと笑った。意地悪い言い方ではなかったけど、俺は自分がいつの間にかよその家でそんな話題になっていたことを知って恥ずかしくなってしまった。嫌味ったらしい兄と、夜泣きする弟。彼らからは、階下に住んでいるのはさぞかしひねくれた寂しい一家だと思われていたのかもしれない。

 実際、近くには訪ねてくるような親類もなく、近所の移民の子供と友達になるのも禁じられて、すごく閉鎖的な環境だった。アーサーも、お酒は好きだから俺が寝た後にこっそり飲みに行くことはあったみたいだけど(たまに俺が朝起きたらアーサーが玄関で倒れたまま寝てることがあった)、年の割にはパーティーに行ったり大勢でわいわい騒ぐタイプではなかった。
 というより、俺の知る限りでは、アーサーには友達が一人しかいなかった。



        *   *   *



 ドイツ人一家が越してくる前の年、俺が11歳くらいのころだ。アーサーが得意気に、とっておきのバースデープレゼントでも見せるみたいに俺に紹介してきたのは、アーサーにできた唯一の「友達」だった。
 その友達、本田菊は、ひかえめで線が細い日本人だった。年はわからなかった。学生なのかと聞いたら、違いますよと言って笑っていた。

 当時は深く考えなかったんだけど、今になって思うと彼らの仲は「友達」というにはちょっと普通じゃなかった。一度、俺に隠れるようにして二人がキッチンでキスしてるのを見たことがある。油を使って危ないからキッチンに近寄るなとアーサーに言われたのに、陰からのぞいたらそんなことになっていた。ただ俺は別にそのときは「へえ、アーサーと菊はすごく仲がいいんだな」としか思わなかった。今見たら「うわ、俺の兄は友達がいないうえにゲイだったのか」とショックを受けてトラウマになるかもしれないけど、当時の俺は良くも悪くも純真だった。

 それはともかく、菊がアーサーの「友達」でいる間は平和な日々だった。菊が遊びに来ればアーサーは終始機嫌がいいし、菊は優しくて、見たこともないお菓子を買ってきたり、珍しくて美味しいご飯を作ってくれたりした。菊が家族になってくれたらいいのにと子供心に思った。それをアーサーに言ったような気もするけど、アーサーがどう反応したかは覚えてない。

 ただ、そんな平和なときも長くは続かなかった。一年くらい経つと、菊は突然ぱったりと家に遊びに来なくなって、話題にのぼることもなくなった。

「最近、菊はうちに来ないね。どうしたの」

 何も知らなかった俺が聞くと、アーサーは俺の方を見向きもせずに、低い声で「国に帰った」とだけ答えた。

「え、急に?日本に?どうして?」
「知らねえよ」
「日本なんて遠いじゃないか。もう会えないのかな」
「もう知らねえよ、あんなやつ。」

 アーサーは吐き捨てるように言って、それきり菊の話題はタブーになった。俺は納得できなかったけど、アーサーを問い詰めてもどうしようもなかった。

 そうやって、またアーサーには「友達」が誰もいなくなった。ドイツ人の一家が上の階に来たのはちょうどその後だった。アーサーはそのせいでセンチメンタルなピアノの音に余計に苛立ったのかもしれない。

 菊が本当に国に帰ったのか、ふたりが別れただけなのかは知らない。ただ、それ以来、失われた菊への想いの反動のようにアーサーの俺への執着は日に日に悪化し、それに反して俺も成長して束縛や過保護を嫌うようになり、どんどん空気が悪くなっていったことは確かだ。



        *   *   *


 共有する昔話がほとんどないルートヴィッヒと俺だけど、今どこの学校に通ってるとか、知り合いの知り合いを伝って共通の知人を探すような(ああ、あそこのカフェのウェイトレスの子がクラスメイトだったのかい?あの子、俺の友達の弟の彼女だよ!)、そういう同世代っぽい話を一通りしていたら、気づくといつの間にか意外と時間が経っていた。別にこのあと予定はないけど、ずっと居座るというのもちょっとね。

「俺、そろそろ行くよ。コーヒーありがとう」
「そうか。またいつでも来てくれ。ああ、そういえば今日、これから部屋の下見が来ることになっているんだ」

 ルートヴィッヒはそう言って腕時計を見た。それは修理中の俺の古ぼけたのとは違って、銀色のベルトでいかにも壊れにくく、時間を正確に刻みそうなものだった。

「部屋の下見?ルームシェアでもするのかい」
「余った部屋を貸そうかと思ってな。それで、置きっぱなしになってたピアノも今日処分した」

 こう言っちゃなんだけど、アップタウンでも探せばけっこう安くアパートが借りられることもあるのに、こんな街はずれの古いアパートで真面目なドイツ人とルームシェアしようとするなんて、よっぽどの物好きだと俺は思う。

「どの部屋を貸すんだい」
「ピアノが置いてあった、そこの奥の部屋だ。お前の家も同じ作りだろう」

 ルートヴィッヒは俺が帰ろうと席を立ったついでに、ドアを開けて奥の部屋を見せてくれた。確かに同じ作りで、懐かしくなった。俺の家だとここがアーサーの寝室だった。アーサーの部屋には窓際にベッドがあって、彼の妙なアンティーク趣味のナイトテーブルがあって、カーテンは濃いブルーだった。
 俺は窓から中庭を覗いて、そこでふと気がついた。

 俺じゃない。

 この窓のすぐ下は、アーサーの部屋だ。だから、さっきルートヴィッヒが言った、この部屋の窓から聞こえた子供の泣き声は、俺のじゃないんだ。俺の部屋は反対側で通りに面していたから、泣いてたって、この窓からは聞こえやしないだろう。それに、そもそも俺が泣くはずがないんだ。昔の俺には怖いものなんかなかった。アーサーがいたから。
 夜中に一人で、子供と勘違いされるくらい窓辺で泣きじゃくってたのはアーサーだ。俺はアーサーの涙なんて、一度も見たことがなかったのに。

 俺はほんとに彼にうんざりして家を出たし、そのことに後悔なんてない。でも、強くて、口が悪くて、菊が家に来なくなったときもまったく寂しそうなそぶりを見せなかったアーサーが一人で泣いていたという事実、そのことをずっと一緒にいたはずの俺が気づかなかったという事実は、すくなからず俺を動揺させた。

 こんなことを今さら知ったからって、どうしたらいいんだろう。下の部屋に行ってアーサーを抱きしめてやればいいんだろうか。でも泣いていたのも過去のことだし、今の俺が過去のアーサーを慰めることなんてできない。何と言ったらいいのかもわからない。でもアーサー、俺が君に守られて安心しているときも、君がそんな思いをしていたなんて、それを俺が知らなかったなんて、あんまりじゃないか―――


 そのとき俺を混乱から呼び覚ますようにちょうどエントランスのブザーがけたたましく鳴り、ルートヴィッヒはドアを開けに向かった。部屋の下見とやらが思ったより早く来たらしかった。思いがけない過去の発見で動揺してしまった俺だけど、とりあえず邪魔になるから部屋を出ようとしたら、そこでルートヴィッヒに挨拶していたのは、また思いもよらない、過去の人物だった。

「はじめまして、先日ご連絡した本田です」

 アーサーの「友達」の菊だった。本当に目を疑ったよ。こんなところで急に再会しただけでも驚きなのに、そのうえ、7年ぶりくらいのはずなのに怖ろしいことに菊は見た目が何も変わってなかった。まだ学生に見える。もう彼が実はヴァンパイヤか何かだと言われても俺は信じるよ。ただ、前は俺が彼をずいぶん見上げていたはずだけど、今では完全に俺のほうが見下ろす形になっていた。

「・・・菊?」
「はい?」
「なんだ、知り合いなのか?」
「そう、よく俺の家に遊びに来てたんだ。ほら、俺、アルフレッドだよ。アーサーの弟の」
「あー、アルフレッドくん・・・!大きくなりましたねえ!」
「ここに住むのかい?」
「まだ決めてはいないんですが、その、よく知っているアパートなので、広告を見かけてついお問い合わせしてしまいまして」
「アーサーには言ったの?」
「いえ、まだ、何も。今のご連絡先も存じ上げませんので。まだこちらにお住まいなんですか?」
「俺はもう家を出たんだけどさ、アーサーはまだ住んでるってよ。会っていきなよ。きっと喜ぶから」
「それは・・・」

 菊の表情が陰った。いくら見た目は変わらなくても、その表情は過ぎ去った年月を感じさせた。俺は彼らの間に何があったのか知らないけど、でもこうして菊のほうから来てくれて近くに住むことまで考えてるってことは、今もアーサーのことを気にかけてくれているからなんじゃないだろうか。アーサーだってあの性格で今になって急に友達が増えたはずがないから、その気持ちが嬉しくないはずがないと思う。

 そしてなによりも俺は、さっき思いがけなく知ることになった過去の、暗く影を落とす部分を埋めるのに最適なピースが急に現れたことに浮かれた気持ちになっていた。一人で泣いていた過去のアーサーに必要だったのは菊なんじゃないだろうか。俺がルートヴィッヒと普通に話せたみたいに、今でも菊がアーサーに会いに行けば、過去が溶けだしてアーサーの孤独も涙もすべてが解決するんじゃないか、そんな期待がふくらんだ。

「ほら、会ってきなよ。あ、もうアーサー帰ってきたかな?さっきは留守だったんだけど」
「いえでも私ずっとご連絡しておりませんし、急にお邪魔するわけにはいきませんよ」
「いいから、会えば何とかなるって」
「でも・・・」
「おい、部屋の下見はしないのか?」

 状況を把握していないルートヴィッヒは後ろで不思議がってるけど、俺は先に菊を下の階に連れて行こうとして手を引っ張って、でも菊はいまいちためらっていて、そうやって階段で騒いでたら、下から「おい、うるせーぞ」という怒号が飛んできた。

 この声は忘れもしない。アーサーだ。階段の下を見ると、アーサーはちょうど買い物から帰ってきたらしく、大きな紙袋を抱えていた。

「あ、アーサー」
「アーサーさん!」

 俺と菊の声が重なった。
 アーサーを見るのも3年ぶりだ。彼もあんまり見た目は変わってないけど、ちょっと前よりくたびれた感じがした。アーサーはドアを開けようとしてポケットの鍵を探してたみたいだけど、呼ばれて見上げた階段の先に俺と菊が立っているのを見て、わかりやすいくらいに顔色を変え、抱えていた紙袋を落とした。リンゴやらオレンジやら、俺がすごく嫌いだった種類の豆の缶詰やらが無残に階段を転がっていく。君まだあんなの食べてるんだね。

「・・・なんなんだよ、お前ら」

 アーサーは転がっていく荷物には全く目もくれず、目を見開いてこっちを見たまま、弱弱しい声でそう言った。それから、またたく間にグリーンの瞳に涙があふれかえってきた。俺にとっては、初めて見るアーサーの涙だった。そして、涙がこぼれる、と思った瞬間、アーサーは

「ばかぁ!」

と叫んで、床や階段に散らばった荷物も放ったまま、自分の部屋に飛び込んでしまった。ばかって。以前は散々兄貴面していたアーサーのひさしぶりに見た態度があまりに子供っぽいので、俺はなんだか呆れて拍子抜けしてしまった。

 菊はアーサーの暴言に対しても何も言わずに、ただ静かに階段を下りると、落ちた果物や缶詰を拾い集めて、また丁寧に袋に詰めて、ドアの脇に立てかけるようにして置いて、つぶやいた。

「・・・やっぱり私などが訪ねてきても迷惑ですよね、今さら」

 暗い声だった。なんだ、さっきあんなに会いに行くのをためらってたのに、そんな風に言うなんて、やっぱり会いたかったんじゃないか。俺はさっきのアーサーの態度はまったく迷惑だからとかじゃなく、ただキャパシティを超えただけだと思うけどね。そして、相変わらず状況がよくわかってないルートヴィッヒが階段の上から呑気に声をかけてきた。

「本田、部屋の下見はどうする」
「あ、はい、今まいります!」

 ここはたった今目の前で泣いて逃げ出したアーサーを追いかけるべきなんじゃないかい!?と俺は思うんだけど、菊は真面目にも、当初の予定を遂行しにドイツ人の部屋に行ってしまった。こう言うのもなんだけど、君たちが別れた理由がちょっとわかったような気がするよ。あとなんとなく、菊はむしろお堅いルートヴィッヒと一緒のほうがうまく暮らしていけるような気もするね。アーサーが聞いたら怒りそうだけどさ。

「ねえ部屋の下見、俺も一緒についていってもいいかい。菊と会うのほんとにひさしぶりなんだ」
「別に構わないが。本田はいいか」
「もちろんいいですよ」

 俺は二人のあとについて、また4階の部屋に入った。菊がここに住むのを決めるかどうかはわからないけど、とりあえず今、菊があの部屋の窓辺でしゃべったら、下のアーサーの窓にきっと届くだろう。だから俺は今からあそこで、菊に聞いてみることにするよ。なんでこのアパートに住もうと思ってるのか、アーサーにまた会いたいと思ってるか、アーサーのことをどう思ってるか、なんてことをさ。

 その答えがきっと、下の窓辺で泣いていた過去のアーサーに届くんじゃないか、なんてことを期待しながらね。






Jul.18.2013