2592000セカンズ




それはまったく余裕のない、ティーンエイジャーみたいな愛の告白だった。
毎度まったく進展をみせない会議が終わり、会議室を出たところでイギリスは日本をつかまえて、仕事の話を持ち込んだ。それはごく短い用件だったが、日本の直接的表現を回避した言い回しと、イギリスの胸中で暴れる感情を隠そうと必死な言い回しの相乗効果で、話は大幅に長くなり、いつの間にかあたりには他に誰もいなくなっていた。
目の前の相手に夢中になっていたイギリスは、長い廊下にふたりきりであることにはたと気がつくと、心拍数が急に上がったような気がした。ふたりのそばの窓からは橙色の斜陽が射しこみ、日本の頬を普段よりも濃い色に染めている。日本はそつなく仕事の話を続けながら、口元にはいつもの曖昧な笑みを浮かべていた。その顔に、イギリスの心は粟立った。橙色の照明を浴びた日本がいつもよりあでやかに見えること。でもそんな表面的な笑いはやめてほしいこと。ほんとうはこんな仕事の話はどうだっていいこと。ほんとうはもっと伝えなければいけない話があること。この近い距離の中にある見えない壁を壊してしまいたいこと。そんないくつもの考えが、波のように押し寄せて、イギリスの意識を奪っていった。
次の瞬間「どうしましたか?」と訊く声に気がつくと、日本が急に黙ってしまったイギリスを不安そうな顔で見上げていた。心臓が音を立てて鳴る。その音が何かの合図であったかのように、今だ、とイギリスは思った。
そうだ言うなら今だ、今なら誰もいない、今しかない、今がないなら未来永劫チャンスはないかもしれない、今、今、日本が行ってしまう前にこの気持ちを、と何かに取り憑かれたような頭でイギリスが口にした数語の言葉は、静まり返った廊下の空気を通じて、確かに日本の耳に伝わったようだった。日本は弾かれたように身を震わし、黒い目を数回しばたかせたあと、耳から頬のあたりを、さあっと赤く染めた。そして返事を促すようなイギリスの視線に、
「あ、あの、しばらく考える時間をいただいてもいいですか」
とだけ告げると、それでは失礼します、とイギリスが引き止める間もなくその場から走り去ってしまった。



言ってしまった、言ってしまった。そのときのことを思い返すたびに、なんてムードもへったくれもない告白だ!とイギリスは家中の柱に頭をぶつけて死にたくなったが、他にどれだけ余裕のある告白ができたかと考えても、とてもじゃないが自分に器用な真似はできそうにもなかったので、1週間後には「まあ俺らしく言えてよかった…かもな。不意打ちって言うのも効果的かもしれないしな」という、やたらと前向きな結論に落ち着いた。
それからあの告白について「しばらく」考えた日本が返事をくれるのかと思うと、電話をくれるかもしれない、急に訪ねに来るかもしれない、と気が気じゃなくなり出掛けることもできず、イギリスは仕事以外は大抵家に引きこもって過ごすようになった。もともとアウトドアなタイプでも仲間とつるむタイプでもなかったのでさほど通常と変わりなかったが、風呂に入っているときや庭の手入れをしているときもどうも気になって、携帯電話のみならず固定電話までコードをできるだけ延ばして家の中で無理矢理携帯するようになったのは大きな違いだった。意外と古風に手紙での返事かもしれない、と思いついてからは、郵便受けも毎日何回ものぞきに行くようになった。

いつ来るかわからない返事を待ち続ける日々はけして幸せなものではなかったが、ただ「返事を考えているということは、日本は今俺のことについていっぱい考えているんだよな…」と思うとイギリスの胸に何か熱く込み上げるものがあった。日本の頭に思い起こされる自分はどんな姿なのだろうか。普通に現代か。それとも交流が深かった同盟時代か。自分の印象はどうなのだろうか。頼もしいのか? 優しいのか? 紳士? 意外とパンクだとか?
そんなことばかり考えていると、いてもたってもいられなくなり、気持ちを落ち着かせるために刺繍を始めても、つい菊や桜の模様ばかり作ってしまうのだった。

そうして13個めの刺繍クッション(菊柄)が完成した頃には、廊下での告白から既にひと月が過ぎていた。日本の言うところの「しばらく」がどれほどの期間かわからなかったイギリスだが、告白の返事を考える期間としてはもう十分なはずだとは思っていた。
伝えられる返事が「YES」なのか「NO」なのか、まったく確信は持てなかったけれども、もしこれが完全に「NO」なら、自分のことが嫌いだとか、生理的に駄目だとかいうなら、すぐに断られるはずだ。でも、返事がないと言うことは、日本は迷っているはずだ、だから完全に「NO」ってことはない、安心しろ俺!と、ひと月の間にすっかりくたびれたイギリスの灰色の脳細胞はそんな境地にまで辿り着いた。
そうなると、いくら「考えるから時間をくれ」と言われたからといって、愛する人をこうも長いあいだ放っておいて悩ましていいものだろうか。イギリスはどう返事するかを悩んだあまりにやつれた日本の姿を思い浮かべ、その想像の姿のあまりのあわれさに胸が痛み、できたばかりのクッションを引っ掴むとすぐ日本の家に向かうことにした。


急な訪問だったが、幸い、日本は家にいた。
「あ、イギリスさん…」と年季の入った引き戸からのぞいた顔は想像したほどやつれた様子はなかったが、すごく元気、というわけでもなかった。要するに普通だった。
そのまますんなり客間に招き入れられ、日本茶をふるまわれると、イギリスは「これ、やるよ」とクッションの包みを渡した。日本は少し驚いたふうに、でもいつもの落ち着いた声でありがとうございます、と言い、包み紙を丁寧にはずした。中から菊柄のクッションが出てくると「すごいですねこれ、全部刺繍ですか…しかも菊柄なんですね…」と刺繍の部分を指でなぞった。イギリスは「別に、暇だったから」と自作であることをほのめかし、その花びらの部分結構いい出来なんだよな、と思いながら出された茶をすすった。すると日本は「手作りなんですか!」と刺繍に顔を近づけて、ひと針ひと針を確認するかのようにじっくり眺めだした。イギリスは刺繍の出来には自信はあったものの、それがなんだか日本に自分自身をまじまじと見られているようで居心地が悪くなり、さっさと本題に入るべく口を開いた。
「それより、日本。気持ちは決まったのか」
「はい?」
日本はクッションから顔を上げ、首を傾げた。
「だから、その、こないだの話だよ」
「何の話ですか?」
空中にクエスチョンマークを浮かべそうな勢いで日本が聞き返した。イギリスは、こいつ俺にもう一回言わせるつもりか?と思いつつも答えを促す。
「何って、そりゃ、こないだの会議のあと、俺が、おまえのことを」
「あー………その件ですか」
イギリスがみなまで言う前に遮ると、日本は眉間にしわを寄せて、考え込むようにすこしうつむいた。
「あの、イギリスさん。今でも、お気持ちは、変わらないんです…か?」
「え?」
「あれからもうひと月たちましたけれども。変わらないんですか?」
「……ひと月とかそんなんで、変わるわけねえだろ」
「……そうですか」
ひと月。イギリスにとって、このひと月は日本のことを考えていたらあっという間に過ぎた。
「ていうか、日本は何を悩んでるんだよ」
「何をと言われましても…」
「考えるって言ってたじゃねーか。何か悩むことがあるから返事を保留にしたんだろ」
「あーそうです、そう言いましたね私…」
そう言ったきりさらに考え込むような様子を見せる日本に、もしかしてこいつただあの場を適当にしのぐ為に「しばらく考える時間がほしい」とか言っただけじゃないよな、という不安がイギリスの脳裏にちらついた。
「ええと、私たちって一応、人というか、国じゃないですか」
「そうだな」
「だから、合併でもないのにそういう関係になるのはどうかと思うのですが…」
「そんなの合併してなくてもアヤしい奴らいっぱいいるじゃねーか。そうなったからって誰に迷惑かけるわけでもねぇし。やってみなきゃわかんねーだろ」
「他の人たちからの目もありますし…」
「他の奴から文句なんか言わせねぇよ」
こうもすらすらと返事ができるのは、ひと月ものあいだ、切々と悩みを打ち明ける日本に頼もしく答えるところを頭の中で散々シミュレーションしてきたからだ。この調子なら、もう日本がどんな悩みをぶつけてきても俺はうまく言いくるめる自信がある!とイギリスは座卓の下で小さくガッツポーズをした。
「………それにイギリスさん!お忘れかもしれませんが、私たち一応、同性同士なので…恋人同士になったとしてもいろいろと障害があります!」
これもとっくに想定済みの質問だったので、イギリスは意気揚々と回答した。
「あ、日本、俺そういう方面はちょっと自信あるし、お前には絶対気持ちいい思いしかさせないから、安心していいぞ」
「そういう方面って」
「いや、だから、そういうときのだよ」
「イギリスさん、自信あるんですか…」
先刻より怪訝な色を帯びている日本の黒い目に気づいて、イギリスは今の回答はハズしたか、と慌てた。でも、この問題については、もっと日本のために考えていた案があるのだ。
「あ、それに…まあ、日本がどうしてもって言うなら、俺は…別にどっちでもいいし」
「…なんの話です?」
「だからその、するときだよ。日本が俺をやりたいっていうなら、俺は別に」
「………」
「…黙るなよ。嫌か?」
「あ、あの、嫌というより、予想してなかったというか…」
日本は目線を落として、私がイギリスさんを…とつぶやいている。その言い方が心なしか本当に嫌そうだったのでイギリスは無駄に傷ついたが、話を先に進めた。
「他に迷ってることはあんのか?」
「ええと、ええと……ああ、それに私、よく子供のように見られますが、もう本当に老体なんです!」
「別にそこまで体に無理はさせねえよ、さっき言ったろ、安心しろって」
「そっち方面の話ではありません!いやまあもちろんそっちも心配ではありますが、そうではなくて、気持ちのほうも枯れているというか…この年になって恋愛感情にふりまわされて、悩んだり泣いたりするのはもう嫌なんです」
そう言い切った日本はめずらしく声を張り上げていた。この悩みだってイギリスにとっては想定済みのものだったが、最後の「嫌なんです」という言葉の重い響きに、イギリスは不覚にも目の奥に熱いものがこみあげてくるのを感じた。
「…悩んだり泣いたりするのは、日本じゃなくて俺だけだろ。振り回されてるのも俺だし」
だから心配しなくても日本は悩んだり泣いたりする必要ないだろ、俺が代わりにするんだから、と続けようとしたイギリスだが、涙まじりにならないようにと押さえ気味に出した声は、情けないほど小さく、途中で消えてしまった。
かっこわるいな俺……と落ちこんだイギリスがふと見上げると、目の前の、表情がないようでよく見るとある日本の黒い両眼はめずらしく揺らぎ、頬に血がのぼっていた。さっきの言葉といい、さすがにもう日本と付き合うのは難しい気がしてきたけれど、あのひと月前に廊下で感じた壁を、もうすこしで壊せるかもしれない、とイギリスは思った。せめてそこまで近づけたらいい。もうすこしだ、日本、おまえが一歩だけ俺に歩み寄ってくれたら。

しばらく日本の唇が何か言いたげに震え、何かを飲み込むように動いたあと、ゆっくり言葉を発した。
「なんだか……イギリスさんは私にはもったいない気がしてきました」
「……ちょっと待て!なんだそれ!」
もう消えてしまったと諦めた光が厚い壁のすきまからちらりと見えたような、そんな気がしたイギリスはとっさに立ち上がると、座卓越しに日本の肩をつかんだ。
「いえ、その心意気でしたら私なんかよりもっとすてきな方とお付き合いした方がいいと思います」
「おい、日本!」
そのまま揺さぶると、日本が小さく悲鳴を上げる。
「……あの、痛いです」
「……すまん」
自分がほぼ座卓に乗り上がっていることに気がつくと、イギリスは慌てて手を離して座りなおした。日本はつかまれた肩を押さえて、ため息をひとつこぼした。
「………やっぱりもうすこし考える時間をください」
「いや、もう時間はやらない」
「今度こそちゃんと考えますから」
「今度こそってなんだよ!俺はもうひと月も待ったんだから、今日絶対に返事をもらう!どっちなんだ日本、YESか、NOか、YESか!」
「で、では…とりあえず今のところはまだNOで…」
「とりあえずとか今のところってなんだよ…そんな答えは認めない!」
「それならやはりもうひと月ください」
そう言った日本のまっすぐな黒い目に射られて、イギリスはそれ以上言えなくなった。
「お返事を考えて、ひと月後に私からイギリスさんのお家に参りますから」
「……日本から来るのか」
「ご迷惑ですか?」
「そうは言ってない」
「では、そうしましょう」
「……わかった」
「あっ、では私、お茶のおかわり、煎れてきます…」
イギリスの答えに笑顔を浮かべると、日本はそう言って、ひと月前の廊下でのように、小走りで台所へと去ってしまった。

日本の姿が見えなくなると、イギリスは大きくため息をついて、ネクタイを少しだけ緩めた。がっかりしたというより、それまで張っていた気が抜けたような、むしろ楽になったような気分だった。それに消えそうだった光が見えた以上、今までとは違って、これからのひと月はただ返事を待ったりはしないつもりだった。
会う約束も取り付けよう。連絡もこっちからする。刺繍もひとりで大量生産してないで、日本の希望を聞いて作ろう。ただ聞くだけじゃなくて、日本に図案を書いてもらうのもいい。日本は絵がうまいし。さっき俺はひと月やそこらで気持ちが変わるかよと言ったけど、確かに、変わることもあるよな。でも、これからのひと月で変わるのは俺じゃなくて、日本、お前の気持ちになるはずだ。
そう考えを巡らせながら、イギリスの口元は自然とゆるんだ。

そんなイギリスの思惑を知らない日本は、やかんをコンロにかけると、台所の床にしゃがみ込んだ。そして先程、泣き出しそうなイギリスの声を聞いたときから熱を持ったままの頬を両手で押さえながら、「……さっきはすこしあぶなかったですが、またひと月も会わないでいれば、今度こそイギリスさんの熱もきっと冷めてしまいますよね」と小さくつぶやいた。











Mar.28.2009