「では、お二人して私を騙していらっしゃったんですか…?」 「うーん…まあ、騙すというか…ねえ? 最初、記憶がなかったのはほんとだし。あいつも必死だからさ、怒らないでやってよ」 怒るというよりも、呆れと、驚きと、何よりも安堵。雑多な感情がぐるぐると頭の中を駆けめぐり、日本はもはや怒る気力すら残ってなかった。 「ほんと、必死だったんだよ。日本がなかなか見舞いに来ないからって、俺が怒られたりさ…」 「だからあんなに見舞いに行け行けとおっしゃってたんですね…」 「そう。ごめんね。今日も、ほんとは、あいつが日本の気持ちがわからないって心配してたから、俺が見に来たんだ。最初は『日本をすぐに惚れさせてやる』とかいって強気だったけど、日本がもう会わない宣言するくらいなんだから、やっぱり新生イギリスでせまる作戦は失敗してんだろ?」 「まあ、そうですね…」 日本が記憶喪失後のイギリスとの会合を思い返しても、急にそんな展開になるような要素はなかったように思えた。 「はは、やっぱそうだよな。もう二週間くらい経つだろ?明日でちょうどかな?最初は日本とのキスで記憶が戻るとかふざけたこと言ってたけど、計画通りにいってないんだったら、もうあいつの演技も限界だろうし、そろそろ、何かのきっかけで記憶が戻ったふりでもするだろ。見てて笑えるかもしんないけど、演技につきあってやってよ」 「はあ…」見てて笑えるというより腹が立つかもしれないな、と日本は思った。「それにしても、フランスさん、今回はずいぶんイギリスさんに協力なさったんですね」 「まあ、俺がボトルで殴っちゃったしね。それに、言ったろ?俺は愛の引力に引かれあう二人が見たかったって」 「でも、これでは自然の引力ではありませんよ」 「別にいいんだよ、自然が無理なら自分で引っぱれば。必死にね」 フランスは日本の隣に座り、湯のみで乾杯をするような仕草をして、そう言って笑った。日本もつられて「むちゃくちゃですね」と、笑う。 イギリスが覚えているのなら、今すぐにでも、これまでイギリスの思いを知らないふりをしてきたこと、そしてあの日帰ったことを、謝りたいと思った。しかし、まずはイギリスが記憶が戻ったことを認めてくれないと。本当に自分から打ち明けてくれるのか、記憶のある彼がそんな素直に打ち明けられるのか、と日本が考えていると、フランスが言った。 「だからさ、もしまだ日本が記憶喪失の責任取るつもりだったらさ、別の方法で取ってやりなよ」 「別の…?」 「日本がそろそろ覚悟を決めてあいつを喜ばせてやるとかさ」 「そうですね…」 二週間も演技をし続けたイギリスについては呆れた気持ちもあったが、むしろその意気込みに敬意を表して、今度こそは自分から覚悟を決めて動くべきかもしれない、日本はそう素直に思うことができた。しかし、その前に少し気になることが現在進行形で存在している。 「……ところで、フランスさん、あの、私の気のせいかもしれませんけど、先ほどから私の帯をほどこうとなさってませんか」 「あ、やっぱりわかった? 帯って簡単にほどけそうで意外と難しいね」 「……」 「ま、恋に悩んだかわいい子を慰めてからそういう方向に持ってくのは、お兄さんにとって自然の摂理みたいな? これも一種の引力だよね」 馬鹿なこと言わないでください、と言って日本は帯にかけられたフランスの手を軽く叩いた。 次の日、日本はイギリスの家を訪ねた。これから会うイギリスが、本当は記憶の戻ったイギリスだと思うと、この家を訪れるときにいつも見る、蔦の這う壁も、バラの木も、何を見ても懐かしいものに再び会えたような気持ちになった。もちろんドアを開けて出て来た、イギリスにも、だ。おひさしぶりですイギリスさん、やっと会えましたね、と日本は心の中で呟いた。 居間に通されてソファに座らせられると、日本は早々に 「あれから、何か思い出されましたか?」 と、質問をぶつけた。イギリスが記憶をなくして以来、これまでこういう聞き方はしたことがなかった。回復を急かすような言い方は、イギリスが傷つくかもしれないと思ったからだ。イギリスも日本のその言い方が意外だったようで、目を見開いたあと 「……いや、まだ、何も」 ときまり悪そうに答え、急に「太陽が眩しいな」と言うと、立ち上がって窓際へレースのカーテンを閉めに行った。すべてを知った今になれば、日本にとって、イギリスのどの行動もひどく不審なものに見えた。今まで記憶がないと騙されていたことが信じられないくらいだ。そして今、妙にそわそわしている彼はおそらくどうやって記憶が戻ったことを言い出すか、必死に考えているに違いない。こうやって、この二週間、彼は記憶をなくした姿を演じ、あの土曜日をなかったことにして、始めからやりなおそうとしていたのだ。 イギリスは何を考えているのか、なかなかカーテンの端をつかんで窓の外を眺めたまま戻ってこない。日本は焦れて、立ち上がってイギリスの元へ行った。 「あの、先日イギリスさんが訊かれたことですが」 「うわっ」 急に後ろから話しかけると、イギリスが驚いて声をあげた。そして、振り向いたとき日本の距離の近さに、ふたたび驚いたようだった。 「私、嘘をつきました」 「…なんのことだ?」 「このことです」 日本は胸元から例の手紙を取り出した。獅子とユニコーンの封鑞。イギリスの表情が目に見えて固くなる。ほら、結局、こんなささいなきっかけで簡単に表情に出てしまうのだから、はじめから記憶がないふりなんてしなければいいのに。日本は自分の口元がゆるむのを感じた。 「見覚えはありませんか? 以前、イギリスさんに頂いたんです。正直に申し上げますと、最近のイギリスさんと私は、ごく普通の友達同士という関係ではなかったんです。それをどうしても思い出して頂きたくて」 「………」 「どうしても、今日、思い出して頂きたくて」 じっと見つめると、イギリスの緑色の目の奥に怯えが見えた。日本は、彼は何を怯えてるのだろうと思った。記憶喪失のふりをしていることがバレたかもしれないことか? それとも、あの日、招待した日本が来なかった理由をあらためて聞かされることか? 日本が距離を詰めると、イギリスは同じだけ後ろに下がった。彼が背にしたカーテンのドレープが歪む。 日本がもう一歩、歩み寄ろうとすると、イギリスが額を抑えてため息をつき、 「……ちょっと待て、俺、紅茶入れてくる」 とその場を逃げようとしたので、思わず日本は「待ってください」とその手をつかんだ。 驚いて手を引こうとしたイギリスを、日本は逆に強く引っぱる。そして、足を払い、床の上に投げ倒した。カーペットの上とはいえ、受け身の仕方も知らないイギリスは腰を打ったらしく、痛みに声を上げた。日本は素早くその上に馬乗りになり、イギリスの両手をたばねて頭の上で拘束した。体格が上の相手でもこう簡単にできるのだから、こういうとき武道は身につけておいて正解ですね、と日本は思った。 拘束されたイギリスの顔をのぞきこむと、腰を打った痛みからか、それともいきなり倒された驚きからか、目尻に涙が浮かんでいる。日本は空いているほうの手の、親指の腹でその雫をやさしく拭ってやった。目の近くの柔らかい皮膚を急に触られて、イギリスが身震いする。その指でそのまま頬の輪郭をなぞって、顎をつかんだ。状況を把握できず、怯えた緑の瞳。「日本、どうして」と問おうとして開いた唇に、日本は自分の唇を押し当てた。 しばらくしてから日本は唇を離し、拘束していた両手を自由にする。イギリスの手はそのままカーペットの上にだらりと伸びた。手首には指の跡が少しだけ赤くついていた。 「……イギリスさんが記憶を取り戻す方法はこれしかないとフランスさんからうかがったんですが、いかがですか? 何もかも思い出しましたか?」 日本は優しく語りかけたが、見下ろすイギリスは目を閉じたまま荒い呼吸を繰り返すのみで、返事どころか、身動きすらしない。日本は汗で額に張り付いたイギリスの前髪を払ってやった。しばらくするとようやくイギリスはうっすらとまぶたを開けて、そのとき日本の顔がまだ近くにあることに驚いたようではあったが、小さな声で、 「あ、ああ……思い出した………」 と答えた。 「そうですか。効果があってよかったです」 と、立ち上がろうとした日本の手を、イギリスが慌ててつかまえる。 「おい、ちょ、ちょっと待て!!」 「なんですか」 「あ、えーと……もう一回、いや、あと三回したら、完全に思い出すと思うんだが」 真剣なまなざしでそんなことを言うイギリスがおかしくて、日本は吹き出した。 「わかりました。イギリスさんが私のことを完全に思い出してくださるまで、いくらでもお付き合いいたしますよ」 きっとこれが終わったら、自分の謝罪大会と、イギリスの言い訳大会が待ち構えてるだろう。そのことを考えると今から面倒だった。でもそんなことはひとまず置いておいて、今は自分を下から引き寄せる力に身を任せてしまおう、と日本は思った。 May.17.2009 back |