愚 か な り 我 が 心 暇なんだったら雪かきくらい手伝えよ、と電話で言われ、アルフレッドは実家にひとりで住む兄を訪ねた。家の前に放り出されていたシャベルを手に取り、無心になって車の周りと玄関までの通路の雪かきをすっかり終わらせてから家の中に入ると、屋根を担当していたはずの兄はいつの間にか暖炉の前に座っていた。 「きみ、終わったのかい?」 「ああ」 けっこうな運動をしたせいで身体は熱いのに、手足は指先の感覚がないほど冷え切ってしまっていた。でもそれも、オレンジ色にぱちぱちと燃える火にしばらくかざして、握ったり開いたりを繰り返すうちに、次第にもとの感覚を取り戻した。アルフレッドは時々、黙ったまま隣に座って同様に火に手をあてる兄を見やった。厚手のセーターを着込んでるせいで、背中がいつもより丸く見えた。 日が暮れかけ、味気ないTVディナーの夕食が終わるとアーサーは当然のようにキッチンからウイスキーのボトルとソーダを出してきたが、アルフレッドは「アイスクリームないのかい?」と聞いた。ガキと言われようと、真冬に暖かい部屋で食べるアイスクリームは最高だ。 アイスクリームを抱えてソファに陣取り、アルフレッドはリモコンで適当にテレビのチャンネルを変えたが、ニュースと、途中から見てもよくわからない映画と、自然番組くらいしかやっていない。仕方なしにそこらにあった雑誌を拾ってページを繰った。ちょうど開いたのはゴシップ面で、派手な文字が躍っていた。 「ねえ、ブランジェリーナはどうなると思う?」 スプーンをくわえたまましゃべったせいで、膝の上に乗せていた雑誌にクリームが落ちた。アルフレッドはあわてて紙面を親指の腹で拭った。アーサーはといえば、さっきまでソファの上にきちんと座っていたはずだが、アルコールがまわるにつれてずり落ちてきて、いつの間にか半分寝そべっているような格好になっていた。ただどんな姿勢になっても、ウイスキーを入れたグラスだけは、こぼさないようにしっかり地面に垂直に持っていた。 「誰だ、それ」 「ブラッドピットとアンジェリーナジョリーのカップルだよ。今年中に別れるかどうか、賭けが始まってるんだ」 「どうだっていいな」 「まあ…そうだけどね」 アルフレッドにしたって、あまりに室内が静かだから何か雑誌の話題でもあげてみようと思っただけで、特に関心があったわけではない。 「でも確かあいつら、子供がごろごろいんだろ?」 「養子が3人ずつと実子が3人ずつ、いたはずだね」 「ていっても、どうせ金だけ払って誰かに任せきりで自分じゃ育ててないんだろ。養子までもらって、勝手なもんだな」 「さあね!不幸な生い立ちの子に何もしないよりは偉いかもしれないよ」 「じゃあ、俺、別れるほうに10」 「あ、賭けるのかい?」 「ああ」 「それなら俺は別れないほうに10ドル!俺は誰にしたってハッピーな結果を願うよ」 「別れたほうがハッピーかもしんねぇだろ」 「君はすぐそういうふうに言うんだから」 抱えていたアイスクリームの容器の底が見えて、アルフレッドはソファから立ちあがった。確かまだフリッジにいくつか残っていたはずだ。フレーバーを選べるくらいには。なんだかんだいって、アーサーはアルフレッドが来る予定があると、いつもアイスクリームをたくさん用意してくれている。 「おい、キッチン行くなら氷持ってこいよ」 アーサーがうしろから声をかけてきた。 「まだ飲む気かい?!言うまでもないけどさ、君、さっきから飲みすぎだよ。それ、お茶じゃなくてウイスキーだよ。わかってる?」 「お前だってさっきからずっと飽きもせずにそのバケツみたいなアイスクリームばっかり食ってんじゃねぇか」 「俺は一応ベンアンドジェリーズとバスキンロビンズを交互に食べてるよ」 「バカだろ」 「君に言われたかないさ、飲んだくれ!」 「ガキ!」 アルフレッドは悪態に背を向けた。兄は飲んで飲んで、ああなってくると手がつけられない。昔からそうだった。飲んでるものが酒ってだけで、あの言い方、どっちがガキだよ、とアルフレッドはいつも思う。 「だから、アル、お前には本田のことがわからねぇんだろうな」 アーサーに散々言われて、アルフレッドはアイスクリームのスプーンをハイボールのグラスに持ち替えていたが、減りが遅いので手のひらの中でグラスはどんどんぬるくなっていった。アーサーは相変わらず腹の上にグラスを載せ、たまにそれを水みたいにあおった。 「なんだい、その言い方。だいたい菊と先に仲良くなったのは俺だよ」 「でも、わかっちゃいねぇよ」 アイスクリームなら兄の話も適当に聞き流しながら楽しく食べていられたが、酒だとそうもいかない。元来そこまで酒が好きなほうでもなかったし、悪酔いしている人間を目前とすると、余計に飲む気が失せた。それに兄のこの話だって、聞くのも何度目かわからないくらいだった。古い友人の話だ。 「本田は、そこらにいるような奴とは違ったんだよ」アーサーは一度グラスに口をつけ、すこしのあいだ考え込むように黙った後、天井をじっと見つめたまま話し始めた。 「今日みたいに雪が降ってる日だった。俺が酔っ払ってベンチにけつまずいてさ。そんとき、あいつ、俺の足元にしゃがみこんだんだぜ。それで、足は大丈夫ですかって、すげぇ心配そうに聞いてくんだよ」 「大丈夫か聞くなんて、そんなの別に普通じゃないか」 「いや、言い方が違うんだ。お前は実際に聞いてないからそう言えるんだ。あいつが言うと、俺をバカにしたりとか、茶化したり、あざけったりとかしないで、本当に心配してるっていうのがわかるんだ。あいつはそのときあのコートを着ててさ。お前も見たことあるだろ、本田の、パーティーにでも行くのかっていう変なコート。衿に違う色のボタンがついてて。しゃがみこんだせいで、踏みつけられた雪でコートの裾が濡れてたっけな」 「ああ、あれね」 昔アーサーが話していたことをぼんやりと思い出した。確かに、本田というその男には普通に似合ってはいたが、彼自身が物腰柔らかで中身もやたらと低姿勢なのに、うんとおしゃれな流行りの格好をよくしているのが、おかしな感じがしたのだ。 天井を見ていたアーサーがアルフレッドのほうに少し向きなおり、その拍子に、毛の長いカーペットにグラスの中身がすこしこぼれた。兄がまったく気にする様子がないのでアルフレッドは「ねえ、今、ちょっとこぼれたよ」と忠告した。 アーサーは「別に。どうせ気に入った柄じゃなかったしな」とまぶたを閉じて言った。「どうせいつかは取り替えるんだ」 「俺の髪も好きだったな」 しばらくするとアーサーが突然また話し始め、そろそろ自分の部屋に引き揚げようか、でもこの家ゲームとかないんだよな、と考えていたアルフレッドの思惑は中断された。でも、あえてアーサーの問いに「誰が?」と聞くのはやめた。 「両手で触ってくるんだ。その理由を聞いたら、右手だけがこんなきれいなものを触ってると、左手に不公平な気がするんです、って言うんだぜ。おかしいだろ?」アルフレッドが黙っていると、アーサーは小声で「なにも言ってる内容が全部おかしいんじゃなくてだな、あいつの言い方があるんだ」と付け加えた。 「そんなの、フランシスの口説き文句と大して変わらないよ」 「ちげぇよ、本田は、あいつはまじめにそう思っちゃってるんだ。わざと俺のご機嫌をとろうだとか、笑わせようってんじゃない、ただ、あいつ自身がおかしかったんだ」アーサーはアルコールと思い出でうっとりと潤んだ緑の目をアルフレッドに向けた。「出かけるにしたってさ、博物館とか、そんなんが好きなんだぜ。そんで、誰も読まねぇような説明文をバカみたいにまじめに読んでんだ、ミイラの作り方だとか、そんなのを。何の役に立つってんだ。でも俺が先に行くと後ろから慌ててついてきて―――」 「君、いつもそんな話ばっかりしてるけどさ、今は菊とはどうしてるんだい?」 焦れたアルフレッドがそう問うと、アーサーはそれには答えずに、グラスの中身を一気にあおった。 「答えてよ」 「なんで答えなきゃいけねぇんだよ」 「…だってもう、本当は何年も彼とは会ってないんだろ?」 知ってるよ俺。アルフレッドが言うと、アーサーはグラスをテーブルに置き、ソファーに横向きになった。その拍子に、両の目から涙がつうっと流れてきて、アルフレッドは驚いた。しゃくりあげることもない涙は、涙というより、こぼした水のように頬を伝って流れた。 「急にどうしたんだい、泣かないでよ」 「何言ってんだ、泣いてねえよ」 アーサーはこぼれる涙を拭う様子もなく、平然と答えた。 「泣いてるじゃないか!そんなに気にするなんて思わなくてさ。変なこと聞いたりして、悪かったよ。もういいから」 「うるせえよ」 アーサーは鼻声で否定して、アルフレッドがティッシュで涙を拭こうとした手を乱暴に遮った。 アルフレッドは一度キッチンに退却し、コップに水を汲んで戻ってきた。アーサーはさっきと同じ姿勢で、ただクッションを抱え、両手でその端をぎゅっと握りしめていた。目の前のテーブルに水を置くと、アーサーに「なあ、アルフレッド」と袖を掴まれた。 アルフレッドは仕方のない酔っぱらいを見下ろして、乾いた麦藁みたいに水気がなくてぼさぼさしたその金髪は、別にきれいじゃないな、と思った。舌先三寸のフランシスだって、ここは褒めないだろう。本田はきっと目が悪かったか、兄の美点を他に見つけられなかったか、もしくは、ただ髪に触れたかったか、だろう。 袖をつかんだままのアーサーにアルフレッドが「いったい、どうしたんだい」と問うと、唇を震わせてアーサーが言った。 「―――キスするとき、決まってすこし段差のあるとこでするんだ。そうでなきゃ、必ず座ってしたがるんだ。本田は、あいつのほうが背が低いからって、そんなことを気にしてたんだよ。バカだよな。ちょっとでも、俺がかがむのも、あいつが背伸びするのも、嫌だったんだな。気づいてたよ、俺は。でもそれを本田に指摘したり、わざと俺から段差のあるようなとこに行ったりしなかった。あいつが気にしないよう、ただ気づかないふりをして、俺は―――」そこでアーサーは息がつまったように言葉を止め、アルフレッドの腕を強くつかみ直すと、懇願するように言った。 「なあ、アルフレッド、俺、ちゃんとあいつに優しくできてたよな?そうだろ?」 Feb.3.2010 |