琥一が目覚めるとすでに、かなり飛ばさないと始業には間に合わない時刻だった。いまさら遅刻や欠席なんてどうということもなかったが、大迫に会うと何かと言ってくるからめんどうだ。ホームルームに出るのはやめよう、と判断して、急ぐこともなくだらだらと制服を着て髪をセットして下に降りると、中二階に弟の姿は見えなかった。もう起きてんのか、とさらに一階に降りても、やはりルカはいない。普段おなかすいただのホットケーキ食べたいだのうるさいルカの姿が見えないのに違和感をおぼえ、また中二階に戻ると、ルカの制服が床に落ちていた。先に行ったわけでもなさそうだな、と琥一が制服を拾うと、ふとベッドの下に落ちて丸まっているシーツのかたまりに目がいった。まさかと思ってシーツをめくると、弟はそこに全裸で横たわっていた。
「うおっ」
 エアコンなんて気の利いた文明の利器が存在しないWestBeachじゃ、夏の盛りなどは服を着ないのも珍しくはなかったが、いきなり全裸を見るとやはり驚く。
「…おい、ルカ?起きねえなら俺行くからな」
 シーツに顔を埋めて熟睡してるらしい弟の頭を足で軽く蹴ると、白い頭がもぞもぞと動き、「うぅ・・・」とうめいた。
「…コウ?…俺」
「じゃ、お前、来るなら歩けよ」
「…待って!」
「げっ」
 急に起きたルカに足にしがみつかれて、琥一はバランスを崩し、どうにか転ぶのは避けられたが床に膝を思いっきり打ちつけた。けっこう痛い。
「こっの、バカルカ!なんなんだよ!」
「俺さ、なんか変?」
「いつものことだろーが!」
「じゃなくて」
「はぁ?」
 そう言われてみると、いつもよりやたら顔が赤くて、ぼさぼさに乱れた髪の奥からのぞく目もぼんやりしている。呼吸も心なしかつらそうだった。
「…おまえ、ひょっとして、熱あんじゃねーか?」
「そうなのかな。暑いけど、なんか、すごい寒いんだ。すげえ変」
 ルカの額に手を当ててみると、確かに熱いような気はした。ただ、通常がどれくらいかよくわからないので推測でしかない。自分の額に手を当ててくらべてみても、ルカのほうが熱い気はするがよくわからない。そして、WestBeachには体温計なんてものも存在しないので、公正なジャッジは誰にも下せない。
「たぶん、あるな。寝とけ」
「うん」
 ルカはおとなしくうなずくと、またシーツの中に潜っていった。
「おい、せめてベッドで寝ろ」
「やだ。床のほうがいい。冷たくて気持ちいいんだ」
「…好きにしろ」
 熱のせいで暑くなった結果、全裸で床に転がって、風邪のせい寒くなった結果、シーツを引っ張り出して、それにくるまっていたらしい。丸まったシーツの端からのぞく、床に伸びた長くて白い足に、死体みたいじゃねえかと琥一は一瞬考えて、ぞっとしてその考えを慌てて打ち消した。

 琥一がふたたび二階に行こうとすると、ルカがシーツにくるまったまま「コウ、学校は?」と聞いてきた。琥一は「だりぃ」とだけ答えて、制服を脱いで、タンクトップに着替えた。
 別に学校に行かず一緒に家にいるからといって、琥一には何も看病めいたことなどできない。ただ、ルカが風邪をひいたのなんて小学校以来記憶にないので、妙な不安がぬぐえなかった。それとさっきの死体みたいな足を思い起こすと、弟をひとり置いていく気になれなかった。だいたい、もともと遅刻の予定だったんだから、学校なんてもうどうだっていいのだ。

 ひとまずペットボトルに水を入れて、ルカに持っていってやった。依然ルカは床に転がったままだが、本人が暑がったり寒がったりしてるので、あたためていいのか冷ましたらいいのか琥一にはわからなかった。しかし、どうしたらいいのかわからなくても、親に連絡すればめんどうなことになるし、医者は金がかかるし、担任…は問題外だ(だいたいここに来られたりしたら困る)。次に思い浮かんだのは、幼なじみの顔だった。琥一は携帯を開いて、表示された番号をじっと見つめた。あいつなら、たぶんルカが熱出したと言えば、すぐにいろいろ持ってきて自分より適切な処置を施してくれるだろう。何を食べたらいいのかとか、あっためたらいいのか冷ましたらいいのかとか。自分のことみたいに本気で心配して。そしたらルカも「ちゃんやさしい…お母さんみたい!」とかいって気色わるいことにべたべた甘えだすに違いない。…どうなんだそれは。
 …まあ、いつもぴんぴんしてるルカのことだ、ほっといても、じっとしてればそのうちまたうっとうしいくらいに元気になるだろう。琥一はそう考えて、一度手にした携帯をテーブルの上に投げ捨てた。

 ルカが寝ているため、いつもみたいにレコードをかけることもできず、学校をさぼったはいいものの、琥一にはすることも特にない。仕方なく、らしくもないが、ためこんでいた洗濯と掃除をしているうちに、いつの間にかバイトの時間になった。ルカの様子を見に行くと、相変わらず、傷でも負った動物みたいにじっとしている。バイトのついでに何か買ってきてやるか、琥一がそう思ってルカに「おい、なんか食いてえもんあるか?」と聞くと、「…お寿司。まわってないやつ。」とほざいたので、本人の意見は尊重しないことにした。

 ルカの状態がどうであろうと、生活のために金は稼がなければいけない。バイトで身体を動かしてる間はルカのこともそれほど思い出さなかったが、それでもいつもより時間が気になった。めんどくせえという意味とは別に、早く終われ、終われ、と思う。そう思うと余計に時の流れが遅くもどかしく感じた。
 やっとシフトの時間が終わり、制服を着替えていると、ふと思いついて琥一はちょうど同じ時間に上がるバイトの先輩に「風邪のときって、何食べるっすかね」と訊ねた。先輩は「何、誰か風邪ひいてんの?」と聞いたあと、「うーん、桃の缶詰とか?あ、でもそれは古いかな…。普通にお粥とかおじやとか。あと、プリンとかゼリーも食べやすいかな」とやたら真面目に回答してくれた。確かに言われてみれば風邪のとき食うのってそういうもんだよな、と琥一は妙に納得して、帰りにコンビニに寄った。


 琥一が帰ると、出てくるときはぐったりと床に転がっていただけのルカは、一応服を着て一階に座り、以前拾ってきたジャンプをめくっていた。
「あ、おかえり」
「…いいのか?もう」
「寝てるの飽きちゃった」
「そういう問題じゃねえだろ」
「うーん、でも、大丈夫そう、かな。なんか俺よくわかんないんだ。どういう感じが大丈夫かとか。コウ、どう思う?」
 そう聞かれて琥一はルカの額に手をやった。朝より熱くないと言われれば熱くない気もした。でも、どうなればいったい大丈夫なのかは、厳密には琥一にもわからないのだ。
「ま、平気か」
 琥一はそう言ってルカの向かいにどかっと座り、コンビニで買ってきたプリンと桃の缶詰をテーブルの上に置いた。合計、税込252円。
「ほらよ。食え。」
「あ、すげえ。豪華!風邪ひいてよかった」
「うるせー」
「コウ、やさしい。お母さんみたい」
 ルカが自分の予想とたがわぬことを言うので、琥一は内心どきりとした。しかもならともかく、まさか自分に向かって言うとは。お母さんって、こんな面した男に向かって、おい、そりゃねえだろ。全国の母親が嫌がるだろそりゃ。ルカはそんな琥一の考えも知らず、早速プリンのふたをめくっている。
「あ、うまい。そうだ、コウも風邪ひいたらいいのに」
「はあ?」
「そしたら俺が超やさしくしてあげる」
「誰がひくか」
 いや、ひきなよ、俺看病したい、とプラスチックのスプーンをくわえてルカは笑う。こいつのやさしい看病ってどんなんだ、下手したら口にホットケーキ詰め込まれて殺されそうな気がする、と琥一が思いをめぐらせていると、目の前にスプーンがつきだされた。
「ほら、コウ、お礼に一口あげる」
「いらねーよ」
「そう言わずに、ほら」
 だいたいお礼も何もそれ俺が買ってきたんじゃねーか、と続けようとした琥一の口に、「スキあり!」と甘ったるいプリンを乗せたスプーンが無理やりねじ込まれた。








Aug.14.2010