「コウ、俺今日すごいのもらった!」
と、バイトから帰ってきたルカが獲物を捕ってきた犬みたいに意気揚々と琥一の前に差し出したのは、缶ビールの六本セットだった。
「おっ、どうしたコレ」
「バイトで配達行ったらもらった。」
 なにがどうなったら未成年にこんなんやる展開になるんだと琥一は思ったが、ルカはいったいどんな手を使っているのか、どうも人からものをもらったり(奪ったり)するのに長けているらしいので、うるさいことは聞かず黙って着服することにした。ルカはほら三本ずつねといって琥一の前に缶を並べる。親の目の届かない生活でもあり、こういったものに年相応の興味はあるが、食べるものにすら困る生活じゃそんな一瞬で消えるような娯楽に割く金はない。思わぬ収穫にふたりはそれなりに盛り上がり、琥一の部屋で音楽をかけつつ、酒盛りらしいことをはじめた。

 明日のためにとっておくということをなかなか学ばない桜井兄弟は、たちまちそれぞれが3本めをあけていた。ルカは「にがっ。そんなにうまくはないね」と言いながらも飲んだし、琥一も内心同意しながらも飲んだ。
 飲むだけで特に浮かれてなにか特別なことをするわけでもないが、雑誌をめくり、たまにくだらないことを話して、だらだらといつも通りのことをするだけでもアルコールのせいか多少いい気分になってきた。実家にいたとき、正月に親戚から酒をつがれたときでも特に様子は変わらなかったルカも、すきっぱらのせいか勢いのせいか、今日はすこし顔が赤い。言ってることも、愛がどうだのイルカがどうだの、普段以上に意味がわからない。でも琥一自身も酔っていたのでやはり普段以上にどうでもいいと思って聞き流していた。それより大音量で流れているバディ・ホリーの「ラーニング・ザ・ゲーム」のメロウな歌声のほうが気になった。

 ただ、しばらくしてルカが
「やばい。俺、今なら飛べるかも」
などと言いながら、錆びついてあまり頑丈とはいえない階段の手すりにのぼろうとしたときは、琥一もさすがに立ち上がった。
「バカ、降りろ」
「愛の力が俺を動かす!」
「あーもうウルセー、黙って座ってろ!」
とルカの首ねっこを琥一がつかんで引っ張ったら、「コウ!」と名前を叫ばれて、逆にひっついてきた。腕が巻きついてきて、肩をつかまれて、ルカの顔が焦点があわないほど近くに迫る。





 琥一に突き飛ばされたルカは、2メートルくらいふっとんで床に転がった。ただでさえ傷んでいる床が派手な音を立てる。ルカはむくっと起き上がり、髪をかきあげながら「冷てえの、お兄ちゃん」と今の衝撃も全然こたえてないかのように言った。
 唇が熱い。つかまれた肩もやけに熱い。唇になにか湿ったものがあたった。今のは。口元を手の甲で拭うと、床に座ったままのルカが
「やばい、俺、奪っちゃった!」と言った。
「ハア?」
「コウのはじめてのチュウ」
「…未遂だ」
「いや、いまのは絶対当たってたね」
「当たってねえよ」
 琥一の言い分としては、今のは端っこしか当たってない。割合にして唇の面積の30…いや45パーセントくらいいってたかもしれないが、とにかくしっかりヒットしたわけではない、一瞬だったし、そのはずだ。

「あれだ、『なぜかやさしい気持ちがいっぱい』ってやつ?ははっ」
 琥一の混乱をよそにルカは声色を変えて歌って、笑った。やさしい気持ちなんてすこしもなかった。それどころかもう一回投げ飛ばしたいくらいだ。しかしこんなことであまり取り乱すのもらしくないと思った。琥一にしろ別に初めてのキスは初恋の女の子と伝説の教会で…なんてロマンチックな幻想を抱いてたわけじゃないが、そうじゃなくたってはじめてが酔っ払った弟なんて、最悪にもほどがある。
 でもアメリカの映画なんかでは家族同士は挨拶代わりにキスなんてしょっちゅうしてる。あれと同じだ。家族はカウント対象外。ましてや弟。…ひとまずそう結論づけると、琥一はため息をつき、缶の底に残ったビールをあおって、ルカを置いて階下に顔を洗いに行った。洗面台で鏡をみてももちろん見た目には何も変わりはないが、さっきのことを考えはじめるとその部分が妙に熱を持ってるように感じられてきて、その熱を冷やすように琥一は顔を冷水につけた。

 はじめてのチュウ。響きからしてバカバカしいと琥一は思った。ルカはさっきのが琥一のはじめてだと断言して、事実その通りだったが、ルカのほうはどうなのか、琥一は知らなかった。グラビアなんかを見ながら「俺これ好き」「趣味わりぃな」などと話すことはあっても、それぞれの実体験については兄弟なりの変な遠慮もあって話したことがなかった。四六時中いっしょにいてバカばかりやってきたから、ルカにこれまで特別付き合ってるような存在がいたことがないのは知ってるが、でもあれだけ女に言い寄られるルカだ、まったく何もしたことがないほうがおかしい。酔って兄相手にするくらいだから、もうルカにとってはたいしたことないのかもしれない。


 琥一が部屋に戻ると、ルカは突き飛ばされたそのままの位置の床で眠ってしまっていた。自分の部屋で寝ろ、と起こしかけたが、また何か言い出すと面倒なので放っておくことにした。季節的にそのままにしても風邪はひかないだろうと思ったが、一応ルカの上にジャケットをかけてやった。そのときルカの上にかがみこむと、頬に小さなすり傷をみつけた。さっき突き飛ばしたときにできたのかもしれない。すり傷ならこんなに小さなものでもすぐに見つけられるのに、ルカが何を考えてるのかは、琥一にはさっぱりわからなかった。




 朝起きると、床に転がっていたはずのルカは、いつのまにか琥一のベッドの足元に猫みたいに丸くなって寝ていた。起きろ、と琥一は昨晩の仕返しもこめて頭を蹴ってやった。
 いくらそのときは気が動転したことでも、翌朝になるとどうってことなく思えることはよくある。琥一も昨日のルカとの接触については、よく考えてみれば、口を殴られたのと変わんねえな、と思えてきた。あんなことで無駄に取り乱したのは琥一も飲んでいたからだ。もちろんファーストキスとしてはカウント対象外だ。
 明るい朝の光の中でまた顔を洗って、鏡をのぞくと、やはり見た目は何もいつもと変わらず、昨日の熱もすっかり消え去っていた。

 しばらくするとルカが着替えて「あーなんかフラフラする」と言いながら階下に降りてきた。
「テメーはもう飲むな」
「えー」
「酒癖ろくでもねーよ」
「あ、覚えてるんだ」
「忘れた」
「覚えてるくせに」
「うるせー。ボタンずれてんぞ」
「え、あ、ほんとだ」
 豪快にずれていた制服のシャツのボタンをルカがなおすあいだにその話はそれで終わりになって、今日はふたりはそのまま始業に間に合うように真面目に学校へ向かうことにした。ただしいつも通りにバイクで、だが。

 琥一が愛車に乗ると、ルカが後部席からしがみついてきた。
「おい、腰やめろ。バーつかめ。」と言っても、ルカは腰にまわした手をゆるめるどころか、嫌がらせのようにさらにぎゅっときつくしがみついてくる。琥一が諦めてハンドルを握る手に力をこめると、ルカは琥一の背中に額を強く押し当てて小さく「涙が出ちゃう、男のくせに」とつぶやいたが、その声はエンジン音にかきけされた。







Sep.18.2010