朝はうんざりするほど晴れていたのが嘘みたいに、琥一が帰ろうと昇降口に出ると雨が激しくコンクリートを叩いていた。ひさしぶりに校則を守って歩いて学校に来たと思ったら、これだ。めんどくせえ、琥一は小さくため息をついた。天気予報をチェックする習慣も、折り畳み傘なんてものを持ち歩く習慣もなく、コンビニでビニール傘を買う金銭的余裕もない。したがって急に降り始めた夕立に対して残された選択肢はといえば、おとなしくやむまで待つか、いさぎよく濡れるかだけだ。
 教室から一緒に来たはずの琉夏はどこに行ったのかと思って背後を振り向くと、琉夏はいつの間にか数人の女子に「琉夏くん傘ないの?入れてあげるよ!」「家どこ?」などと囲まれていた。別にどうってことのない、見慣れた光景だ。その女子の提案に琥一が便乗できるはずもないので、琉夏は放っておいて自分は雨がやむまで待つかとひとりで校内へ戻ろうとすると、急に強い力で雨の中にひっぱられた。転びそうになって慌てて体勢を整えてももう遅く、琥一は見事に校舎前にあった水たまりの中に足を突っ込んだ。

「…ハァ?!」
「あはは。天然シャワー。すっげ」
 ぶっ殺す、誰の仕業だと思って見ると、さっき女子に囲まれていたはずの琉夏が、いつの間にか琥一の腕を掴んで、一緒に雨に打たれていた。
「テメーかよ!ふざけんな、俺はやむまで待つんだよ!」
「いいじゃん、もうこんだけ濡れたら一緒だよ?ほら、このまま帰ろ」
「てめえは女の傘に入ってきゃいいだろ」
「いや、だって、こんなに強い雨も久しぶりだからね?もったいないよ」
 笑顔でわけのわからない理由をあげられると、次第に怒る気も失せてくる。琥一はそれなりにポリシーのある靴が濡れるのが嫌だったのだが、すでに水たまりに足を突っ込んでしまったので、諦めた。それだけ諦めれば別に雨なんてどうだっていいのだ、濡れようが濡れまいが。琉夏はまだ昇降口に群れを作っている女子たちに「じゃあね!」と明るく声をかけ、また琥一の腕を強く引っ張った。長身で強面の兄を恐れているのか、琥一が一緒にいると、あまり彼女らはしつこく追ってこない。ただ後ろから「琉夏くん濡れちゃうよー」「かぜひかないでね」という声が雨音にまぎれて聞こえてくるだけだった。

 だいたい二人は濡れて困るようなものは(鞄すらも)持ち歩いておらず、酸性雨を気にするような繊細さも持ち合わせていなかったので、べたつく夏服さえ我慢すれば、いつも通りとはいかないがそれなりに問題なく帰ることができた。いつもより人通りの少ない町をぬけて、海沿いを長く続く道を歩いていく。その間も琉夏は、あえて水たまりの中でジャンプしたりして、何がそんなに楽しいのか、へらへらと笑っていた。

「あ、見て、コウ。空が光った」
 琉夏が空を指差した次の瞬間、割れるような雷鳴が響いた。音の大きさと光ってからの時間からして、かなり近いところに落ちたようだった。他に高い建物も何もないこんな広い道で、高く空を指す琉夏を見ると、まさかとは思うが、雷に打たれやしないかと琥一は心配になった。この弟は、どうも変な意味で、神に愛されている気がしてしょうがないのだ。

「ほら、こっち来い」
 琥一は琉夏のびしょぬれの頭をつかんで、車線を横切って歩道の反対側まで引っ張って行った。
「いてっ、なに?West Beachまであとすこしだよ?」
「いいから、ほれ」
 ふたりは潰れた釣り道具屋の、狭い軒先におさまった。それでも斜めに振ってくる雨のせいで足元は容赦なく濡れる。
「今更こんなとこで雨宿りしても意味ないんじゃない?」
「雷が過ぎるまで待ってろ」
「…はぁい」と琉夏は返事をして、数年は閉まったままなんじゃないかと思われる薄汚れたシャッターに寄りかかった。

 そのまま黙っていると、琉夏が、いきなりシャツを脱ぎはじめた。琥一が「なにやってんだ」と聞く前に、琉夏はシャツを雑巾みたいに搾り、ぼたぼたと垂れる水を見て「ほら、見て、コウ。すげえ、洗濯できた」とよろこんだ。
「…バカ、シワになんだろ」
 どうせあとで洗ってシワを伸ばして干してやるのは琥一の役目になるのだ。琉夏はしわしわになったシャツを、そのまま着ることなく肩にかけた。髪からぽたぽたとしずくが垂れている。琥一の髪もすっかり崩れて、前髪で視界が遮られて邪魔だったので、適当にかきあげた。溶けたワックスが不快だった。
「あ、水もしたたるなんとやら、だね、お兄ちゃん」
「ウルセー」
 それから数分もすると雷の音も小さくなり、西の空はもう曇天が晴れて明るくなり、光が海面に反射していた。手前の海面は重苦しいグレーなのに、遠くのほうはきらきらと光っている。嘘みたいな景色だ、と隣の琉夏がつぶやいたのが聞こえた。そうだな、と琥一は答えた。不快な靴もべたつく髪のことも一瞬忘れて、映画でも見ているような気分になった。


「好きだよ」

 現実離れした景色で陶然とした中で、琉夏が、突然そう言った。その四文字はおかしなくらい雨音にかき消されず、しっかりと空気を伝わって琥一の耳に届き、琥一は急に背筋が凍りついたようにつめたくなっていくのを感じた。
 身動きが取れなかった。好きって、何が、何のことだよ。わけわかんないこと言うんじゃねえよ。もし、そう聞き返して、琉夏がもう一度はっきりと言ったら。今琉夏のほうを向いて、琉夏が自分のことをまっすぐな目で見つめていたら。まったく予想もつかないことを言っているのかもしれないが、万が一、琥一が前から気づきたくないと思っていることだったら。自分の腕をつかんだ熱い手、笑うときに優しく細められた目、琥一がただ「よくわからない」で片づけている、多くのことに対する答え。それが今の四文字だとしたら。
 琥一は何も言えないまま、眼球すら動かせないまま、色を変えていく海を見つめた。そうして何もしないでいれば、さっきの言葉は雨にかき消されて、届かなかったことになるのではないかと、ただ、願った。



 しばらくして雨が弱まると、琉夏が「もう行けるんじゃない?」といつもの調子で言い、その言葉でやっと、琥一も魔法が解けたように「ああ、行くぞ」と普段通りに返すことができた。琥一がWest Beachに向かって先に歩き始めると、琉夏は後ろからおとなしくついてきた。
 West Beachに着くと、床はすぐに二人の服から滴り落ちるしずくで濡れた。琉夏は肩にかけていたシャツをソファに放り投げ、「俺、先シャワー浴びるね」と、そのまま足早にシャワールームに行った。琥一は琉夏が投げたシャツを「バカ、こんなとこに置いたら濡れんだろ」と言って拾い、このまま部屋に行っても階段が濡れるだけなので琉夏が出てくるまでここで待つかと、とりあえずカウンターの奥に回って冷蔵庫を開けた。

 冷蔵庫の扉をあけると冷気がふわっと漂ってきて、それがさっきから熱を持ったようにくらくらする頭に心地よかった。ろくな食材が入ってない中をのぞいていると、シャワールームのほうから、ドン、とぶつかるような音が響いた。琉夏だ。琥一の脳裏に、シャワールームの壁を殴る弟の姿がよぎり、それがさっきの聞こえないふりをした言葉とつながり、また背筋に寒気が走った。さっきの言葉は、琥一が願ったとおりに『届かなかった』ことにはならなかった。琉夏には、琥一が『無視した』ことになっているのだ。実際、琥一が、そうした通りに。

 せめて今から琉夏のもとに駆けつけて「どうした」と聞いてやれば、雨とシャワーに濡れた琉夏の顔をきちんとまっすぐ見てやれば、さっき聞こえないふりをした咎は取り戻せるかもしれない。でもそうして何かを変えるだけの覚悟も、琉夏が抱いているかもしれない気持ちに答えられる感情も、琥一にはなかった。そして、完全に突き放せるだけの意志もなかった。
「…なんでだよ」
 琥一は誰に問うわけでもなくそう呟き、水滴を床に落とし続ける琉夏のシャツを片手に握ったまま、その場に立ちすくんだ。







Oct.3.2010