「はい、もしもし。日本です」 「あ、日本?お兄さんだけど。さっきイギリスが急にうちに来てさぁ」 「…何かおっしゃってましたか」 「いやー、聞いちゃったよ!すごいね!」 「…申し訳ありません」 「別に責めてるんじゃなくて、単にびっくりしたなあと思って。日本、あいつのこと好きだったんだって?」 「ええ、まぁ…」 「なんか、意外だよね」 「そうですか…」 「しかも、あいつに土下座して『最後までやらせてくれなきゃ死にます』って言ったんだって?」 「……え?」 「それ聞いて気になっちゃったんだけど、日本的には、最後までって、どのへんを指すの?」 |
to : uk subject : 言葉ではなく心で理解する件 |
もう私用では会うまいと一週間前に決意したばかりの、彼の家の前に立ち、深呼吸をひとつ。呼び鈴を鳴らして、しばらくしてから聞こえる、こちらへ近づく足音。勢いよく扉を開けたイギリスさんは、相手が私であることに気がつくと、驚きと戸惑いの混ざった表情で、 「なんだよ、日本」 と低い声で言いました。 その瞬間、私は心から、「やはり来なければよかった」と思いました。 一週間前、私はこの人にとんでもないことをしてしまいました。何をしでかしたかについては、考え出すと日本海に飛び込みたくなってくるので省略させていただきます。とにかくそんな大変なことをしでかしてしまったということです。 しかし、そのあと、頭を下げてイギリスさんに謝罪していたら、どういうわけか急に「キスさせてくれ」と言われて、肩と頭を強く掴まれて、濃厚な、その、なんといいますか、宣言通りに、キスをされまして。…すごかったです。世界が違いました。正直なところ、このまま舌を吸い取られるんじゃないか、いや、喰われるんじゃないかと、おそろしくなったほどです。キスそのものについては悲しいことにそのようなおそろしい記憶のほうが優っています。 しかし、そのときの、伏せ目がちのイギリスさんの表情と、荒い呼吸、私の後頭部の髪を強くつかむ手の感触。それらの強い印象は、消し去ろうとしても頭の中に何度も何度も蘇り、そのたびに私は叫びだしたくなるような衝動に駆られるのです。 あの行為に、何か意味があったのか、ただ私をからかったのか、憐れんだのか、酔っぱらいの気まぐれだったのか、それとも、他の何かなのか。答えなんかすこしも見えないのに、考えだすと止まらなくなるのです。なるべく考えないようにはしても、そううまく自分の心は思い通りになりません。結局のところ、情けないことに、ふと気がつくとそのことばかり思い出しているのです。 あのときは驚きのあまりに時間の感覚が曖昧になっていたものの、おそらくけっこうな長いあいだ私の口の中を蹂躙(と言ってもいいと思います)したあと、イギリスさんは呆然としている私に「勘違いすんなよ、今日はこれだけだからな!」と言い放ち、私を残して客間に行って、ふすまを勢いよく閉めると、そのまま寝てしまいました。 そして翌朝は、朝食も召し上がらずに飛び出すように我が家を出て行きました。あんな無礼をした私と、さぞかし一緒に居ずらかったんだろうと心苦しく思っていると、昼ごろにはもうフランスさんから電話で「たった今イギリスから聞いたよ!」という御連絡がありました。そして用件は、私への叱責でも何でもなく、単なる興味本位の内容確認でした。フランスさんがイギリスさんから聞いたという話にやたらと事実と違う点が混じってるのが気になりはしましたが、イギリスさんも私にあんなことをされてさぞかしショックを受けたでしょうから、誰かに体験として話したくなるのも当然ですし、記憶が混乱するのも仕方ありません。 そう思って特に気に留めず、そのあとすぐに反省の意と、家に引きこもっていても頭にまとわりついて離れない煩悩を払いたいという願いを込めて、数日間山寺にこもりに行きました。こういうときだけ神仏を頼るというのも情けないものですが、まあ、私の信仰心なんて、しょせんそんなものです。 そして座禅なり何なり、煩悩退散に必要そうなコースを一通りやって、帰ってきたのが3日前です。ひさしぶりに携帯の電源を入れたら、留守電とメールが大変なことになっていました。どれも、用件はフランスさんからのお問い合わせとほぼ同じです。しかし、アメリカさん、カナダさんあたりならまだわかるのですが、イギリスさんが日常さほど親しくないはずの他国の方々からまで、細部を問われるのは不測の事態でした。あろうことかハンガリーさんからも「イギリスさんから聞いちゃいました(*>ω<*)すっごく意外です☆今度お話くわしく聞かせてください♪(*/∇\*)」なんていう興味津々なメールをいただいてしまいました。ああ。あの件について、私の口から女性に何を語れというのでしょうか? そうやって電話やメールであのときのことについて詳しく聞かれるたびに、ぼんやりと覚えている、私の下で驚いた顔で見上げるイギリスさん。キスの間の、後頭部をつかむ手。伏せた瞼。そんな映像が何度も何度も甦り、山寺で多少は消えたかに見えた私の煩悩は、すぐに復活してしまいました。何のための修業だったんでしょうか。せっかくゲームも漫画もネットも断って、精進料理にも我慢したというのに…。 そして話は戻りますが、もうイギリスさんのことは忘れるのだから、なるべく会わないと心に決めたはずなのに、今日わざわざ約束も取り付けずに急に家まで押し掛けて来てしまったのは、その件なのです。 「…あの、先週のことですが」 私がそう口にすると、イギリスさんの眉が不快そうにぎゅっと寄せられました。おそらく、もう私などとは、あの件について話したくないのでしょう。ものすごく言いだしにくいです。でも、これは、これだけは言わなければ。 「あのときの私の失態については、何度でも謝罪したいんですけど、その…イギリスさん、どうして、いろんな人に話して回っているんですか…」 「…それは、お前がNATOにも国連にも言っていいって言ったんだろ?」 それはそうですけど。確かにそうですけど。 「あれは被害届け的な意味合いです!…しかも、私がイギリスさんにひざまづいて泣きながら一度でいいから最後までやらせてくださいって頼んだとか、させてくれなきゃ切腹しますって言ったとか、微妙に人によって違うんですけど、一体なんなんですか…」 「だって、お前、あのときそんなこと言ってただろ?」 「言ってませんよ」 「で、でも、同じようなもんじゃねぇか」 「それは…」 違うんですけど。全然違うんですけど!…しかしそもそもいかがわしい欲求をもてあました勢いで彼を押し倒したことは事実なので、そう言われると強くは言い返せません。 「でも、あの、あまりたくさんの方から連絡を受けまして。それに行為を責められるならまだしも、どこまでやっただのやってないだの、興味本位で細部まで聞かれますと、私も恥ずかしくて。ですから、秘密にしてくれとは言いませんから、できれば、あまり、どこまでしたとか私の手管がどうだったとか、詳しくは話さないで頂けませんでしょうか…」 こんなことを口に出すこと自体、恥ずかしくて死にそうです。わざわざ言いに来ないで、家で我慢していればよかったかもしれません。でも世界中から電話やメールで一日中羞恥プレイと言葉攻めをされるようなあの状態に耐えきれなくなったからこそ、家を飛び出して今こうやって言いに来てしまったわけで。ああでもほとんどの人に知れ渡ってしまった今ではもう遅いんでしょうか。いや、でも、せめてアジアは死守したい。ご近所の人たちからは、この件について何も言われたくないんです。 「…そういうなら、わかった」私の必死の願いが通じたのか、イギリスさんは仕方なさそうにうなずきました。「でも、俺は別に、誰にもお前本人に確認しろなんて言ってねぇからな。ていうか、他のやつが言うことなんかそんなに気にしてんじゃねぇよ。で?」 それまで宙を泳ぎがちだったイギリスさんの視線が急にまっすぐこちらを向き、私は少しひるんでしまいました。 「で…って、なんですか?」 「だから、それで、お前、何しに来たんだよ」 「何って…今の話をしに来たんです」 「…それだけかよ」 「ええ、それだけです」 「ふーん…でも、せっかく来たなら家入ってけば?」 「あ、いえ、私はけっこうです」 「用事でもあるのか」 「ありませんけど」 「じゃ、いいだろ」 「でも、私、その、イギリスさんとは、なるべく…」 なるべく会わないようにしたいんです。だって本当は忘れると決めたばかりなんですから。しかし、先週自分を襲ったばかりの男をこれだけ普通に家に誘ってくれるということは、あのときのことは水に流して普通のままでいよう、というイギリスさんからの提案なのかもしれません。まだつらい部分もありますけど、じきに慣れていかなければならない部分なのだったら、今から無理してでも平気なそぶりをしなければならないのでしょうか。そういう意味なのでしょうか。 考え込んでいると、イギリスさんがすこしイラついたように指でドアをコツコツとたたいたので、私は慌てて「ああ、では、お邪魔させていただきます!」と返してしまいました。 家に入ると、イギリスさんは前を歩きながら、振り返らずに「こないだから、お前、何してたんだ?」と私に聞いてきました。 反省の意と、煩悩を洗い流そうとして山に修行の旅に出ていました。あとはあなたが話した人たちからの問い合わせ対応です。結構忙しかったです。…と正直に話せば、先週のあの出来事をまた蒸し返しそうなので、私は 「いえ、別に。特にこれといって何も」 と曖昧に答えました。それに対してイギリスさんは何も答えません。確かに、なんと返事のしようもないつまらない答えですからね。その沈黙をごまかそうと、私が「イギリスさんは何かされてたんですか」と聞き返すと、イギリスさんは「俺?俺は…」と口ごもった後に立ち止まって私のほうを振り返り、「何もしてない」とぶっきらぼうに言い放ちました。 気のせいかもしれないのですが、気のせいだといいのですが、いやでもきっと気のせいではないんですけど、イギリスさんはさっきから、私に対して怒っているような気がします。やはり私が先週したことを、まだ赦していないのでしょう。きっと顔を見るうちに怒りが込み上げてきたんでしょう。自分でまいた種ですから、仕方のないことですけれど、自分が抱いた感情のせいで彼が不機嫌になっているんだと思うと、やはり、やりきれないものがあります。こんな状態で、私を家に招いて、彼は一体何をしようというのでしょうか。背中に嫌な汗をかいてきました。 居間で、私にソファに座るよう言うと、イギリスさんは大きなあくびをしました。 「あの、急にお邪魔してしまいましたが、お忙しかったんじゃないですか?」 「いや、別に。刺繍してただけだし」 「刺繍ですか…」 相変わらずかわいい趣味ですね…。見ると、ソファの前のテーブル上には確かに糸だかなんだか、裁縫道具が詰まったらしき大きな箱が置かれています。イギリスさんはそれを抱えると、後ろにあったサイドボードにどさっと乗せました。それと同時に、深いため息。 「…紅茶いれてくるから待ってろ」 イギリスさんはそう言ってキッチンのほうへ行ってしまい、私はひとり居間の残されて、ソファの端に小さく座りました。彼の一挙一動にびくびくしてしまう自分が情けないですが、どうしても彼のため息ひとつですら、原因がすべて自分であるように思えてしまうのです。これもひとつの自意識過剰と呼べるのかもしれませんが。 また結論の出そうにもない考えを巡らせながら待っていると、イギリスさんがトレイにティーセットを乗せて戻ってきました。カップを置くためにテーブルの上にあった携帯電話を隅にやったイギリスさんは、何かを思い出したらしく、「あ、そうだ」と呟いて顔をあげました。 「お前って、俺の電話番号知らなかったっけ?」 「いえ、知ってますけど」 「知ってんのかよ」 「前に仕事の用件で交換したじゃないですか。どうかしましたか?」 「…いや、こうやってわざわざ家まで来るし、全然かけてこないから、知らねぇのかと思って」 「すみません、今回は急に思い立って来てしまったもので…失念していました。今度から用事があるときは先におかけします」 「用事って、お前さぁ…別に用事なくたってかけてきてもいいだろ」 「…用事がないとは?」 「だから、用事がなくても!俺と話したい時くらいあるだろ?」 「はぁ」 「…その、寝る前とか」 「寝る前ですか?」 「たとえばだよ、たとえば!」 なんでしょう、これは。私がイギリスさんに電話?寝る前に?崩れかけた友情の再建の提案か何かでしょうか?意図がよくわかりませんが、ただでさえ不機嫌な今の彼をこれ以上の不機嫌ゾーンに突入させないためにも、出された提案はできるだけ二つ返事で了承すべきだとの焦りが生じてきました。 「ええと、つまり、あの、私、電話かけたほうがいいってことですよね?」 「…そこまでは言ってねえよ。ただ、俺に電話しちゃいけないってお前が考えてるのか、って思っただけで…」 イギリスさんに電話しちゃいけないと私が考えるというのは、先週のことがあったからですか?確かに気まずいですし、できるだけもう連絡を取るのはやめようと思っていましたけど。でも寝る前?…まあ、ここはとりあえず、曖昧に濁しながら承諾するのがきっと正解です。そのはずです。 「…はい、わかりました。お気づかい、ありがとうございます」 「あ、でも、俺からは絶対かけないからな。お前からかけるんだからな。それに、俺、かけても出ないかもしれないし。出なくても怒るなよ」 「は、はい。じゃあ、今度、かけます。用事がなくてもかけさせていただきます。出なくても怒りません。」 よくわからないままに、言われたとおりのことを鸚鵡返しに誓うと、イギリスさんは小さく「よし」と言って、手元のティーセットに視線を落とし、すこしだけ満足げに口角をあげました。 そのとき私は、ちょうど、今のこれは、私の好きな彼の表情だな、と不覚にも思ってしまいました。照れたような、すこし気まずいような。こちらの心がくすぐったくなる、彼の感情の揺らぎ。ああ、こんな近距離にいるのなら、今すぐあの金髪をぐしゃぐしゃとかきまわして、怒ったところを抱きしめて、照れた顔を正面から見つめ返して、黙らせて、1/7フィギュア化して、抱きまくら化したい、そういう、衝動が、心臓を、全身の血管を支配して、 …でももう先週あんなことがあった以上、こんなことは考えちゃいけないんでした。すみません、今のはなかったことにしてください。とにかく、イギリスさんの機嫌がすこしでもなおったようで、なによりです。私はもう、それだけで十分なのです。 ティーセットを並べ終え、紅茶をカップに注ぐと、一人掛けのものも合わせれば6人ほどかけられそうな大きなソファだというのに、どういうわけかイギリスさんはごく自然に私の隣に座ってきました。なんだか近いです。すごく近いです。完全に私のパーソナルスペース範囲内です。ひょっとしてここはイギリスさんの普段の定位置なんでしょうか。近すぎて気まずいんですけど。しかし今から私が移動するというのも、あからさまに避けてるみたいで、もっと気まずいですよね。 イギリスさんは紅茶を一口飲むと、カップをソーサーに置き、「あー、眠い」とつぶやいて、目をこすりました。私がそれなら自分は帰ったほうがいいのではと言おうとすると、イギリスさんはあろうことか、私の肩にずるずるとよっかかってきました。心臓が凍りつきます。 「あ、あの!眠いのでしたら、やっぱり私、帰ったほうがいいのでは!」 「いや、気にするな」 そう言いながらも、さらに体重がかかってきます。この人は先週のことを忘れてしまったんでしょうか。私、あなたを押し倒したんですよ? 「気にするなと言われましても、でも、このままですと…」 このままですと。自分で言っておいて、このままだとどうなるのか上手く言えません。ただいろいろとまずいことだけは確かです。 「いいから、動くなよ」 「いえ、でも」 「動くなって。じゃあ、俺が寝てるあいだ、特別に俺にいたずらしてもいいから」 「は?」 うっかり変な声が出ました。何言ってるんですか、この人。寝てる人にいたずらなんて、マジックで額に「肉」って書くくらいしか思いつかないんですけど。 「いや、いたずらなんて、しませんよ」 「しないのか?」 「しません。なんなんですか急に」 「じゃあ俺がクッションになるから、お前が寝ろ」 「いや、あの、私は眠くないんで。イギリスさん眠いんでしたら、ほんとに私帰りますよ」 「来たばっかりだろ。いいから座ってろって」 彼の身体を押しのけて無理に立ち上がろうとしたところ、両手首をつかまれてソファに引き戻されました。驚いて抵抗しようとしたところ、脚を抑えられ、その上に頭を載せられました。 「うわ、ちょっ、何してるんですか!」 こ、この体勢は。 「いいだろ別に」 いわゆる膝枕的な体勢になってしまいましたが、そんな位置に頭を置くのは、男としては非常にまずい気がするのですけど。イギリスさんは頭の位置を何度か置き換えてベストポジションを探しておられるようですが、あの、あまり、動かないでほしいです。 「お前の脚、硬いな…」 「すみません…気持ちよくはないと思います…」 どうして謝ってるのか自分でもよくわかりません。 「いや、俺はこれでいい」 そう言うと、何を思ったのか、イギリスさんは腿に頭を乗せたまま、私の腰に軽く手をまわして、そのまま目を閉じました。肌が粟立つのを感じます。しかし、ここは、平常心。平常心です。心頭滅却すれば火もまた涼し。この際、イギリスさんの頭のことは漬物石か、重たい猫か、今や懐かしい江戸時代の拷問風景(石抱きの刑)か何かだと思って、まったく別のことを考えましょう。どうしましょう。何か、完全に別のこと。こういうときは、素数でも数えればいいんですか。あれ、でも、そもそも素数ってなんでしたっけ。割れない数でしたっけ。割れないって、何を何で割るんでしたっけ。心を落ち着かせるために素数を数えるキャラって誰でしたっけ。ジョジョですよね。どこの誰でしたっけ。いや、普段はちゃんと思い出せるんですけど。今頭のハードディスクがダメージを受けてるんです。きっとそうです。そうとしか考えられません。ああもう、なんでもいいので、とりあえず、ええと、そうです、ジョジョ5部に出てきたスタンドの名前を羅列します。いきますよ、イタリアくん! ゴールド・エクスペリエンス、スティッキー・フィンガーズ、ムーディー・ブルース、セックス・ピストルズ、エアロスミス、パープル・ヘイズ、スパイス・ガール、ソフト・マシーン、クラフト・ワーク、リトル・フィート、マン・イン・ザ・ミラー、ミスター・プレジデント、グレイトフル・デッド……えーっと……ベイビィ・フェイス、ホワイト・アルバム、クラッシュ、トーキング・ヘッド、ノートリアス・B.I.G、メタリカ、グリーン・デイ、ブラック・サバス、キング・クリムゾン……えーっと、えーと… ああもう、私としたことが!サーレーさんや亀のスタンドまで思い出してるというのに、あろうことかペッシのスタンドが思い出せません!これだから年をとると物忘れが多くて嫌なんですよ!ああ、何か、釣りに関係した名前だったと思うのですけど…。フィッシュなんとか…?違います、そんなんじゃありません。ペッシのことは私全然嫌いじゃないんですよ。むしろ好きですよ。でもスタンドの名前が…ああ…喉、喉まで出かかっているのに……釣り……! 「おい、日本」 「は、はい」 急に下から名前を呼ばれて、身体がびくっと動いてしまいました。 「お前さ、今、何考えてんだよ」 そう言って、イギリスさんは私の帯のあたりを指ではじきました。質問に対して「ペッシのことです」と正直に言うべきか迷って、説明が長くなりそうだと思ったので簡単に「釣りのことです」と答えました。間違いではありません。 「なんだよ、お前、釣りに行きたいのか?」 「いえ、別に、そうではありませんが」 「そうか?…俺は別に行ってやってもいいけど。天気が良ければ、な」 イギリスさんはそう言って再びまぶたを閉じました。ああ、ここからだと、まつ毛が長いのがよく見えます。ミルクティーみたいな色して。 「…イギリスさんは、何を考えてたんですか?」 黙っているよりは話していたほうが妙な空気が和らぐような気がして、私は自分が聞かれたことをそのまま聞き返してみました。 「俺か?俺は、こういうのもいいなと考えてた」 「こういうの?」 「お前とこうしてるのも悪くないってことだよ」 イギリスさんはそう言うと、腰にまわした腕に少し力を込め、くっくっと妙な笑いをこぼしました。この笑いは聞いたことがあります。ほかでもない、先週のあのとき、彼は、私の下で身をよじらせて、ずっとこうして笑っていました。後で思い出したとき、あまり普段は笑わない人であることに気付き、すこし貴重に思えたのです。 その笑い声で、私はまた、一週間前のことを思い出します。あのキス。私をからかっていたのか、酔っぱらいの気まぐれか、それとも別の意味か?そして今、私の頭は新しく計算結果を算出しようとしています。それはあまりにご都合主義な展開ですが、でも、彼の笑いと、あのキス、この体勢、こうしているのも悪くないという発言、それから導き出される計算結果。これは、ひょっとしたら、ひょっとしたらです。あれだけ自分であきらめようとしておきながらまだこんな都合のいい期待に追いすがるのはみっともないですし、まさかそんな展開が起きるはずないこともわかってますけど、それでも、もしここで聞かなかったらいつ聞けと言うんでしょうか。 「では、」聞くなら今しかない、そう思うと、自然と言葉が出てしまいました。「私と、つきあいますか?」 「お前と?」膝の上からイギリスさんが私を見上げます。緑の、深い湖みたいな色の目。溺れるには申し分のない深さの色。私がそれに見惚れていると、イギリスさんは、「それは、却下だな」と言って、ハハッ、と笑いました。 「…そうですか」 即答でした。いえ、もちろん、私が一瞬愚かな望みを抱いてしまっただけで、わかっていたことですけど。ああ、聞くだけ馬鹿でした。言わなきゃよかったんです。みっともない。でも、イギリスさんは勘違いするなっていっつも言いますけど、勘違いさせるほうがおかしいじゃないですか。キスしてきたり、抱きついて甘えてきたり、さっきみたいなことを言ったり。こんなの、こっちが勘違いして当然でしょう。なんなんですか。人を馬鹿にして。 あっけなくフラれたというのにこのまま甘えられた体勢でいるのがつらくなった私は、「そろそろ帰ります」とイギリスさんに言いました。頭をゆっくり持ち上げて立ち上がろうとすると、彼は「なんだよ、まだ何もしてないじゃねぇか」と不満そうな声を出しました。 「何もって…何するんですか?さっきおっしゃってたいたずらですか?じゃあ、しますから、ペンを貸してください。油性じゃなくていいです」 「ペンって、お前…ペンなんか使って俺に何する気だよ…」 彼は何を思ったのか、急に赤面しだしました。 「ペンなんですから、書くにきまってるじゃないですか」 「書くって、どこに」 「額に、ですよ」 イギリスさんは、楽しそうだなそれ、と呟いて自らさっと起き上がると、他の部屋へペンを探しに行きました。ああ、なんだか頭が乗っかっていたせいで、足がしびれました。脚を伸ばして血のめぐりをどうにかよくしようとしていると、自然と頭がどんどんうつむきがちになってきました。そういえば、なんだか話が顔に落書きだとかいうおかしな方向に向かってますけど、私、ついさっき、フラれたんですよね。あきらめるとか散々言ってたくせに、山にまでこもったくせに、しつこく期待して、告白して、即答で断られて。もう、笑えてきますね。こんな、醜い。あまりに醜い、自分が。 すぐにイギリスさんがペンと、妙にアンティークっぽい手鏡を持って戻ってきたので、私はあわてて顔をあげました。こんな無様に落ち込んでいるところなど、見せられません。 「ほら、ペン」 「…ありがとうございます。では書きますよ」 「ああ」 イギリスさんはまたソファの私の横の場所に座り、目を閉じて、顔を突き出してきました。額に肉と落書きするというのは誰しもが一度はやってみたいと思うことかもしれませんけど、本来は寝ている友達にこっそり書いたりするのが正しいわけでして。こうして目を閉じて期待したような顔で待ち構えられると、もはやいたずらではないような気がして、妙に緊張してきます。でもそこはぐっとこらえて、彼の前髪をそっとかきわけると、普通にさらさらと6画の漢字を書いて、終了。 「はい、書きましたよ」 「もう終わりかよ」 「ええ、では私は帰り…」 「待て、俺も書くから」 「えっ」 「俺も書かないとフェアじゃねえだろ」 「…別にいいですけど」 「じゃあ、目は閉じてろよ」 イギリスさんはなんだか楽しそうに言い、頭を固定するためか私の首の後ろに手をまわしてきました。待っていると、冷たいペン先の感触が、額ではなく頬にきました。目を閉じていても、イギリスさんの顔が近くで私を覗き込んでいるのがなんとなくわかり、また一週間前のことを思い出しました。あのキス。フラれた今となってはもう深い意味を考える必要もないですけど。 それにしても、イギリスさん、なにやら一生懸命細かく書きこんでいるようで、なかなか終わりません。 「…イギリスさん、ちょっと、長くないですか?」 「全然長くねぇよ、ばか。いいからまだ動くなって」 「あの、私これから帰るんですから、ちゃんと洗って落とせるくらいにしてくださいね」 「いいから黙ってろ」 イギリスさんはさらに何かを書き続け、私の不安は募っていき、しばらくしてからまた尋ねてしまいました。 「あの、もう、できましたか?」 「ちょっと待て。最後にこれだけ」 なにかをスラスラと書き足して、イギリスさんは「よし、できた」と言いました。私が目を開けると、妙に満足げな顔がそこにあり、若干複雑な気分になりました。このひと、私をふったばかりなのに、ずいぶん楽しそうですよね。 それからイギリスさんはさきほどペンと一緒に持ってきた手鏡をのぞいて自分の額を見ると「なんだよこれ。どんな意味なんだ?」と言ってきました。どんな意味って。キン肉マンについて説明しないといけないんでしょうか。キン肉マンをどうやってイチから説明したらいいんでしょうか。でも「英語で言うならミートです」とか簡単に言ったら、怒られそうな気がします。ああ。 「えーと、それは、我が国でいたずらするにはその字を額に書くのが決まりと言いますか」 「じゃあただの伝統ってことで、特に意味はないのか?」 伝統って言うほどでもないですし、ちゃんとした肉っていう意味はありますけど、それは伏せて、「そうですね、まあ、そういうことです」と答えました。 「私にも鏡を見せてくれませんか」 「…いや、お前はだめだ。家に戻るまで鏡は見るなよ。あと、外に出ても絶対それ隠すなよ」 「いや、でも、隠さないと周りの人に何事かと思われますよ」 「いいじゃねぇか、別に思われたって」 「そうですか…」 納得いかなかったものの、ここで言い合うより、外に出たらすぐにどこかの建物に入ってお手洗いを借りて洗い落とせばいいかと思い、それ以上言うのはやめました。 「では、私、帰ります」 お見送りは結構ですよと付け加えたにもかかわらず、イギリスさんは玄関まで付いてきました。 「突然おじゃまして、ご迷惑おかけしました」 玄関でそう言って頭を下げると、イギリスさんがちょっと口ごもって言いました。 「なぁ、日本。お前さ、」 「なんですか?」 「さっき、俺がお前とつきあえないって言ったから、すぐ帰んのか?」 「…違いますよ。用事を思い出したんです。失礼します」 一瞬どう答えたものかと迷いましたが、適当な嘘をついて、そのままドアを閉めながら、イギリスさんに微笑みました。どうか、この人が、曖昧なジャパニーズスマイルでうまくごまかされてくれますように。 ああ、もう。つきあえないからすぐ帰るのかって?そうですよ、その通りです。私には耐えられません。でもふられた相手にずっと平気な顔で膝枕するなんて、よっぽど神経が図太くないかぎり無理ですよ。イギリスさん。あなたは酷い。でも私も酷い。そして私は醜い。あなたにみっともないところばかり見せてしまった。嫌になります。何もかも、嫌に。 イギリスさんの家を離れたら彼の前ではどうにか抑えようとしていた暗い感情が一気にあふれかえり、身体がやたらと重く感じ、歩くのも億劫になってきました。 とりあえず頬の落書きをどうにかしなければならなかったことを思い出し、手のひらで左頬を隠した姿勢のまま(歯が痛いみたいに見えますね)、しばらく歩いたところにあったビルでお手洗いをお借りすることにしました。洗面台で鏡をのぞくと、案の定、私の左頬はひどいことになっていました。刺繍のデザインをするときの手先の器用さを、わざわざ人の顔面で披露しなくたっていいのに。妙に凝った飾り字で、こんなにごちゃごちゃと細かく書かれたら、いくら水性ペンとはいえ、なかなか落ちないんじゃないでしょうか。そう考えると疲れがどっと増しました。この字が、彼が私に振りかけた、落ちない呪いのような気がしてきたのです。 何が書いてあるのか読もうとしましたが、鏡に映った、しかも飾り字のアルファベットは、すこし見たくらいでは何なのかよくわかりません。 「U…n?ユニ…?」 しかし最初の何文字かを追って、それが何なのかすぐに気付き、私は壁にあった手すりに、年寄り臭くしがみついてしまいました。 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland xxx 彼が気にしている、長ったらしい名前と。手紙の結びのような、「x」マークがみっつ。 ふったくせに。私なんかとは、付き合わないって、却下だって、あんなに、あっさりふったくせに、こんな自分の署名を、凝った飾り字で、満足げに人の顔に書いて。ご丁寧にキスマークまで3つつけて。隠さないで帰れと言ったりして。まったく、何を考えてるのか、さっぱりわかりません。わかりたいのに、簡単そうなのに、肝心なところがわかりません。でも、わからないのに、何か確かに強く心を揺さぶるものがこの字にはあって。 それに対して、私はどうして、彼に「肉」だなんて意味のない字を書いてしまったんでしょうか。あれは確かにお決まりの字だということもありますけれど、彼が付き合ってくれないとあまりにあっさり言ったから、腹を立てて、帰る前に書いてやろうと思った気持ちがほとんどでした。いい年して、大人げのない。もうすこし考えれば、彼のことをちゃんと思いやっていれば、もっと他の、意味のあることを書くことだってできたはずです。 彼がクッションになってほしいというなら彼にとってもっと心地よいクッションになろうと努めることもできたはずですし、釣りに行ってもいいと彼がいうなら約束だってできたはずです。ふられたときだって、ほんとうは、「そうですか」の一言で終わらせないで、他に何か大切な気持ちを伝えることもできたはずです。みっともなくても、醜くても。私はそうすべきだったのではないでしょうか。たとえ、それで、何一つ結果が変わらなかったとしても。 そう考えた途端、とにかくまたイギリスさんに会わなきゃならないという焦燥感に襲われだしました。そして「別に用事なくたってかけてきてもいいだろ」と言った彼を思い出し、冷たいタイルの壁にもたれかかったまま、携帯電話を取り出して目当ての番号にかけたら、彼は2コール目で出ました。まだソファのそばにいたんでしょうかね。 「あ、イギリスさん。私です。日本です」 「…何の用だよ」 「先ほど、用事がなくてもかけていいっておっしゃったじゃないですか」 「そりゃ、言ったけど…」 「あの、今、イギリスさんが私に書いた字を見てしまったんですけど」 「お前、帰るまで見るなって言っただろ」 「すみません。でもこのままじゃ恥ずかしいので、またそちらに戻ってもいいですか?」 「…俺の名前が長いから恥ずかしいっていうのかよ」 「い い え 、 全 然 違 い ま す 。 そうではなくて…」どうしてこう、うまく伝わらないんでしょうね。直球じゃないとだめなんでしょうか。いえ、直球どころか、演出過剰なくらいの表現でないと、イギリスさんは満足してくださらないのかもしれません。「…その、イギリスさんの名前を見たら、恥ずかしながら、イギリスさんにまた会いたくなってしまったんです。さっきお別れしたばかりなのに。おかしいですよね。駄目ですか?」 ああもう、恥ずかしくて死にそうです。 「…さっき、別の用事があるって言ってたじゃねぇか」 「もう用事はどうでもよくなりました」 「…じゃあ、ドアの鍵開いてるから、勝手に入ってこいよ」 携帯電話を閉じると、ビルの外へ出て、それまで歩いて来た道を戻り始めました。ああ、これからふたたび彼に会ったらどうしたらいいのでしょうか。硬めのクッション役に徹するべきなのでしょうか?それとも寝る前の話し相手?彼が望むのは何なのでしょうか。あとは、あの「肉」っていう字もどうにかしないといけません。他に何か書き足せばいいんでしょうか。しかし「肉」がつく単語なんて……思いつく限りでも、肉体、筋肉、肉欲、肉離れ、肉団子、皮肉屋、酒池肉林……何を書き足してもさらにひどい事態にしかならない気がします。ああ、肉って、なんて汎用性のない漢字なんでしょう。もっと奥深い意味があってもいいと思うのですが。どうにか部首にするとしても「腐」くらいしか思いつかないんですけど、そんなのますます最低ですね…。腐食?陳腐?豆腐?どれも駄目です。ああ、それともいっそ、「肉じゃが」とかですか?それなら、すこしは私とイギリスさんに関係あることですよね?額に書くほどのことでもないですけど。それに額に「肉じゃが」って書いてあったら私は結構引くんですけど、意味がないよりはマシでしょうか?説明すれば、イギリスさんはすこしでも喜んでくれるでしょうか。 ふと気がつくと、道行く人々が皆、いったい何があったんだと私の顔をじろじろと見ています。そういえば、考え事に気を取られて、頬を隠すのをすっかり忘れていました。ああ、もう、見たいのならお好きなだけ見ればいいじゃないですか。私が今、誰のもとへ向かおうとしているのか、誰のことで頭がいっぱいなのか、ちょうどよく顔に書いてあるんですから。 Jul.12.2009 |