「お前、最近、どっか行ってたのか?」 「ああ、ここ最近ですか?そういえば、言ってませんでしたね。3日間ほどフランスさんと出かけてたんですよ」 「…へぇ」 「ええ。あちらのイベントに誘われまして。以前からお話だけは聞いてたんですけど、実際は見たことがなくて。おもしろかったですよ」 「……」 |
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「日本は、もう俺のことなんかどうとも思っていない気がする…」 両手で抱えるように持ったグラスをのぞきこみながら俺がそう呟くと、目の前のヒゲ野郎はこれ見よがしにため息をついた。 「で、なんなの今度は」 「…最近連絡がこない」 「え、そうなんだ?最近っていつくらい?先々週くらいに俺、日本と遊んだけど」 「知ってる」 「あ、聞いた?」 「それは電話で聞いた」 「へぇ、電話で話したりしてんだ。なんかおかしいよね」 「おかしいって、何がだよ」 「だって今まで何十年もずっとそんな関係じゃなかったのにさ、いきなり普通につきあってるみたいなことしてるんでしょ」 「別につきあってねぇよ」 「あれ、そうなの?」 ヒゲ野郎は意外そうに眉をあげた。つきあってると思われてたのか。日本がこいつにそう言ったとか?まさか、な。いや、でも、一応、気になるからな。 「…日本、なんか言ってたか?」 「お前のこと?いや、別に何にも」 「そ、そうか」 「うん。でもそういう曖昧なのって、楽しい時期だよなーいいよなー」 「…そうか?」 こういう状態って、普通、楽しめるものなのか?俺はなんだか浮かれたり落ち込んだり、落ち着かないばかりで、全然状況を楽しむ余裕なんてない。だいたい、日本、あいつがおかしいんだ。俺に告白してから一週間も放置したってだけでもどうかと思ったし、それから順調に進むかと思ったら、今度は何がどうなったのか、もう10日も連絡がない。 それで、日本が俺の駄目な噂でも知って急に嫌になったんだとか、他に誰か女でも現れたんだとか、そういう無限の可能性を考えながら家で一人で飲んでたらやたらとさびしくなってきて、気づいたらフランスの家に上がりこんでいた。こいつの邪魔をすることに関しては、不思議なことにまったく心が痛まない。酒代も浮くし。 連絡がこなくなったから、といっても、じゃあ連絡が来なくなる前はうまくいってたのかといえば、別にそういうわけでもなく、やっぱりこれといった進展はなかった。キスは最初のあのときしかしてない。好きとも言われてない。一回断ってみてからは、つきあってくれとも言われてない。 ただなんとなく遊びに来たり、遊びに行ったりで、泊まりについてはうまいこと話を逸らされる。あとは、律儀にだいたい一日おきのペースで寝る前に電話がきて、それで少ししゃべったり。その内容も、甘ったるいようなものではなく、ごく普通の近況報告みたいなもんだ。 そんな「よく会うし連絡もするけど前と変わらない」みたいな状態(泊りがない分、進展どころか後退してるような気もする)が続いて、日本が何を考えてるんだかわからなくなってきたから、こないだはちょっと反応を試してみようと思って、日本が訪ねに来ると約束した時間に合わせてちょうどシャワーをあびた。呼び鈴が鳴ったら腰にタオル巻いただけの姿で髪からぼたぼた水滴垂らしながら玄関のドアを開けて 「あ、日本、早かったな…悪い、今シャワー浴びてて…」 と言ってみたら、日本は「すみません、間違えました!」と叫んで、引き留める間もなくどこかへ走り去ってしまった。こっちはタオル一枚じゃ外へ追いかけに行くわけにもいかない。結局日本はそのあと30分くらいしたら気まずそうにまた戻ってきた。そこまで色気のある急展開を期待したわけでもないけど、それにしたって、あれはあまりにビビりすぎだろ…。だいたい、間違えましたって、なんなんだよ…。 でもそんなことやっていろいろ反応試してみたとか、恥ずかしすぎてこのヒゲ野郎には絶対言えねぇな…。絶対バカにされる。俺自身だって何やってんだ自分って思うんだから。 「でも、連絡がないってさ、日本のことだからそれは何か事情があるんじゃないの?自分から連絡してみれば?」 「俺からはしない」 「何それ」 「いいんだよ、そういう暗黙のルールなんだ」 「ルールって、おまえが電話代払いたくないからとか?」 「ちげぇよ!」 「変な意地張るなって。そんなに気になるなら聞けばいいのに」 「本人に直接なんて聞けるかよ」 「だからって、そのたびにうちに来て飲んでクダ巻かれても困るんだってば。あ、もしもし?俺〜」 フランスはどこかからさっと携帯電話を取り出したかと思うと、素早く操作して耳に当てた。まさか、今、お前が、電話かけてるのって。 「え、バカ、おまえ、まさか」 「あのね、日本、今イギリスがうちに来てるんだけどさぁ」 「うわ!てめぇ、待て!」 ソファを乗り越えて捕まえようとしたら、するりと身をかわしてキッチンまで逃げられた。 「そうそう。飲んでんの。それで、さっきからイギリスがね、さびしくて死にそう、ってわめいちゃって、お兄さん困ってんの」 「てめえ!勝手なこと言うなよ!よこせ!」 追いかけて追い詰めて、ダイニングボードの前でどうにか捕まえたフランスの胸倉を掴んで携帯電話を奪おうとしても、またうまく体勢を変えられて、手が届かない。 「きゃー助けて、日本!お兄さん殴られちゃう!」 「うっせぇ!そういうことも言うな!」 ああもう、俺がほんとに殴ってるとか日本に思われたらどうすんだよ!この野郎!この変態!この露出狂! うっとうしい髪の毛を引っ張ってやったら、ヒゲ野郎は「うわ、痛っ、やめ…抜ける!抜けるから!…え?ほんと?嬉しいな。はいはーい。わかった。おまちしてます」と早口で続けた後、ピッとボタンを押して通話を切ってしまった。 「あー、もう、ハゲるかと思った…おまえ、ほんと、こういう容赦ない攻撃やめてよね…。あ、そうだ、日本ね、来るってよ。今から」 「は?」 「だから、これからお前に会いに、うち来るって。もちろん遅くはなるけど」 「…こんな時間に、何で来るんだよ?」 壁の時計を見れば、もうすでに深夜を回ってる。あいつの家がこっから遠いのはもちろん周知の事実で、いったいどうやってこんな時間にここまで来るのか、全く不明だ。 「そりゃ、お前を愛してるからじゃないの?」 俺の問いに、フランスは気色悪い笑みをうかべて答えた。…違う。俺がきいたのは、「どうやって来るのか」であって、「なぜ来るのか」じゃない。HOWだ。HOW COMEじゃない。交通手段であって、理由じゃない。でも悔しいことに、不覚にもそのムカつく答えに気分が高揚して、目の前のひげ面を殴る気力が失せてしまった。 日本が来る。ここに来るのか。わざわざ、夜の闇を縫って、俺に会いに。「お前を愛してるからじゃないの?」という、さっきのフランスの言葉が頭の中をぐるぐると回る。愛してる?本当に?嘘だろ、だってあいつ、最近俺のこと放っておいてるんだぜ?でもそれなら何をすれば愛してるってことになるんだ、俺はあいつに何をしてほしいんだ? アルコールでマヒしつつある脳で悶々と考えながら日本の到着を待っていると、だんだん不安が募ってきた。とりあえずフランスにもったいないから味わって飲めよと言われたボトルは速攻で空にしてやった。フランスが何か文句を言ってるけど、聞こえないふりをする。ただそのあとで聞こえた玄関のベルの音は、怖ろしいほど大きく俺の鼓膜に響いた。 「あ、来た。日本でしょ。ほら、お前出なよ」 「…嫌だ」 「なんで」 「……お前の家だろ。俺はここで寝てる」 「ふーん。まあいいや。じゃあ俺行くからね」 玄関へ行くフランスを見送り、俺はソファに伏せて寝たふりをした。別に俺は日本と喧嘩したわけじゃないから、ほんとはそこまで気まずくはないはずだ。でも、ほんとは、普通に喧嘩できたほうがマシなのかもしれない。 「ようこそー。こんな時間に来てくれてありがとう」 クッションに頭をうずめていても、玄関でフランスが甘ったるい声で日本を迎えているのが聞こえてくる。よくそんないちいちハートマークがついたような気持ち悪い声出せるよな。いちいちムカつくヒゲだ。 「いえいえ、こんな時間に急にお邪魔してすみません」 ああ、これはひさしぶりに聞く、日本の声だ。相変わらず堅苦しい挨拶と謝罪から始まるんだな。そういや日本は、いったい一日何回くらい謝ってるんだろう。今度調査して、世界ランキングにして見せつけてやりたい。「どうしてこんなこと調べるんですか!」って困った顔が目に浮かぶな…。でも俺が一日中そばにいて数えてたら、自然なデータなんて取れねえな。盗聴器でもつけてこっそり隠れて張りついてりゃいいか。日本がどんな暮らししてるかってのも興味あるしな。あとでばれたら怒られそうだけど、そういう喧嘩なら、別に俺は構わない。 「あーそうだ、俺が送った本読んでくれた?」 さっさとこっちに連れてくるのかと思ったら、フランスは玄関先でまだ日本と何やら無駄話を続けている。くそ。あのばか。 「あ、あの本!やめてくださいよ、セクハラですよ!」 「ちゃんと読んでよね」 「無理です…」 寝たふりをいったんやめて、顔をあげて玄関を見やってみたけど、ふたりはなかなかこっちに来ない。なにやってんだ。いや、それより、本貸したとか、セクハラってなんだよ。さっきは俺に何もそんなこと話さなかったくせに、日本と何しやがったんだ、フランス。 別に俺はフランスと日本の仲を疑ったり、妬いたりするわけじゃない。そこまで馬鹿じゃないし、ガキでもない。でも、なんというか、ふたりの会話のくだけた雰囲気に、これは俺と日本の間にはない空気だな、と思わせるものがあって、それがまた無性に俺をさびしい気持ちにさせた。くそ、なんなんだ、これ。 ふたりが居間に向かってくる足音が聞こえてきて、俺はあわててまたソファに転がって寝たふりに戻った。 「日本、何飲む?ワインもビールもウイスキーもあるけど」 「ええと、すみません。今私断酒中なんです」 「え、そうなの?なんで?健康診断?」 「まあ、いろいろありまして…」 「じゃあコーヒー入れようか?」 「ええ、お願いします」 そうだ。日本はあの日、俺が日本に組み敷かれて笑い転げた日から、俺の前で一滴も酒を飲まなくなった。俺がビールだのウイスキーだのを飲んでいても、涼しい顔してウーロン茶とか飲んでる。ウーロン茶ってそんなにうまいのかよ、と思う。たぶん、日本はああいう「酔った勢い」みたいのをもう繰り返したくないんだろう。それは俺にもわかる。それが日本なりの何かの意志の表明だということも。 でも、俺は、ああいう勢いもそんなに悪くはなかったって、すこしだけそう思ってる。日本、お前は不本意だったかもしれないけど、あの日は一応俺たちがはじめてキスした日、そういうことにもなるんじゃねぇの?お前はそういう風に思ったことはないわけ? 目を閉じてそんなことを考えていると、胸のあたりが苦しくなってきて、そばにあったクッションを手探りで引き寄せて、ぎゅっとつかんだ。するとすぐ近くで、何か動いた気配を感じた。 「…イギリスさん?」 名前を呼ばれてつい目をあけると、腰をかがめて俺を見下ろしている日本と目があった。 「すみません、私、起こしてしまいましたか?」 「…いや」 もう寝たふりをしていても仕方がないので、ゆっくり上半身を起して、ソファに座りなおした。目の前に見えた着物は、見覚えのある藍色。これ、前、俺がお前にかけてやったやつだな。そのこと、お前は覚えてんのかな。 「…おまえ、なんで来たんだよ」 「はい?あ、あの、フランスさんに電話をいただいたんです」 「…そうか」 そうだ。もちろんそうだ。交通手段を答えはしなかったものの、「あなたを愛してるからです!」という返事でもない。そんな頭が沸いたみたいな返事は、頭が沸いたヒゲ野郎しかしない。当然だ。 「フランスさんから、イギリスさんが酔ってらっしゃるって聞いて。気になりまして」 「別に、そんなに飲んじゃいねぇよ。いつもと変わんねぇし」 そんな程度のことが気になるくらいなら俺に連絡すればいいのに。なんでお前は俺を放っておくんだよ。 「そうですか。それなら、よかったです」 「俺だって、別にいっつも飲んで暴れてるわけじゃねえし」 「はい」 日本はそう答えて、穏やかに微笑んで、俺の隣に腰かけた。隣といっても、少し離れてはいるんだけれども。そういやこいつは最近うちにくると、いつも一人掛けのソファに座るようになって、すでにそこが定位置みたいになりつつある。すぐそばにいれば適当に理由つけて絡めるけど、距離を取られるとやりにくい。 …でも今のこれくらいの距離だったら、酔ってることを言い訳に、脚乗っけてからかったりとかならできるよな。フランスの前だからやんねーけど。 「おい、なんだよお前〜、日本が来たのにその態度!」 そのときキッチンからコーヒーカップを片手に持ったフランスがあらわれて、黙って座ってる俺たちに、明らかに面白がった声で言った。 「その態度ってなんだよ」 「だからー、せっかく愛する日本がお前のためにはるばる来てくれたんだから、もっと喜べって」 「なっ…」 何言ってんだ、お前。愛する日本とか、いつ誰がそんなことお前に言ったよ!というか日本の前で言うんじゃねえよ!あとで殴る。日本が帰ったら絶対殴る。そう決めてこぶしを握り締めていたら、日本が控えめに、その割に俺にとっては控えめでない内容の発言をした。 「あのっ、すみません、フランスさん、いいんです、私が勝手に来たので!それに、あの、誤解があるようですが、私、イギリスさんにはもう、ふられていますから」 「え!?なんで!?お前、日本のこと、ふったの?なんで?」 フランスは俺に向きなおって、騒ぎ立ててくる。うるさいうるさいうるさい。お前には関係ない。そうだよ、ふったことはお前に言ってなかったよ、なんでふったやつが「日本がもう俺のことを愛してない」とかわめいてたんだ、ってことだろ? なんでふったかなんて、そんな、あのときは、ただ、日本が俺の思惑どおりに誘いに食いついてきてくれたから、もっと振り回してやりたいって思って。もっと俺を追っかけてほしくて。ただ、それだけだ。…俺だって、あれきり日本がもう好きともつきあってくれとも言わなくなるって知ってたら、返事する前にもっと考えたはずだ。 「…うるせえな、お前に関係ないだろ」 「えー、だって!ねぇ…」 「でも、こればかりは、仕方ないことですから」 不満げなフランスに日本がそう言った。…ちょっと待て。お前。仕方ないのか? 納得いかずにうだうだ言っているフランスに、キッチンに氷を取りに行かせたあと、俺はコーヒーをスプーンで掻き混ぜている日本に 「…お前さ、俺がふったとか、あんまり他のやつにしゃべるなよ」 と小声で言った。いや、言ってしまった。 もちろん、これは俺が言えるセリフじゃない。日本が俺のことを好きだといろんな奴に自分から言ったのは俺なんだから。そのことは自分でもわかってる。日本も今絶対に「なんて理不尽な人だ、あなたに言われたくない」とか、そう思ってるはずだ。でもさっきのは嫌だった。ふられたからとか、仕方ないって、なんだよ。あんな、諦めた、みたいな。そんな言い方、ないだろ。 日本はちょっと驚いた顔で俺を見て、でも不満の色を顔に出すことはなく、 「すみません、軽率でした」 と静かに謝った。本日4回目の謝罪。謝罪の言葉が欲しかったわけじゃないけど、そうじゃないなら何と言ってほしかったのか。俺自身もよくわからない。ただ、謝るたびに、なんだかこいつは遠く離れていくような気がする。 キッチンから戻ってきてからは、フランスも俺たちの関係には特に突っ込んでこなかった。そこからだいたいは日本とフランスがしゃべっていて、俺は黙って飲んでいたけど、だんだんさびしくなってきた。日本はそばにいて、クソ髭も一応いて、俺はひとりで飲んでるわけじゃないのに、ちくしょう、なんでこんなにさびしいんだ。 日本が来てから30分ぐらいすると、次第にやりきれなくなってきて、俺は「…もう、帰る」とつぶやいて立ち上がった。するとそれまで俺には全然話しかけてこなかった日本が、急に俺の前に立って「あの!イギリスさん酔ってらっしゃいますし、私、送りますよ」と言ってきた。俺がすぐに返事を返せずにいると、フランスが「あー、そう、そうしなよ。お前今にもドブに落ちそうで危ないから日本に送ってもらえ」と言いながら(ったく、ドブとかいって一言多いだろ?!)、俺を玄関のほうに押し出そうとしてきて、近付いたときに小声で「よかったじゃん」と耳打ちしてきた。足を踏んでやろうかと思ったけど失敗した。 でも残念ながら俺は、実際、歩くのに日本の助けが必要なほど酔っていたわけじゃないし、夜道で襲われるほどやわな奴でもない。だいたい、俺より背が低くて、細くて、ひらひらした目立つ民族衣装で隣を歩く日本を見ると、どうみてもこいつのほうが危ないんじゃねえのと思う。俺が強盗だったら、100%の確率で俺より日本を狙う。 日本の履いてるサンダルみたいな靴は、歩くたびにペシペシと変な音をたてる。暗い夜道は、他に誰も通らない。もちろん今向かっている俺の家には誰もいない(妖精だとかそういうものはこの際カウントしない)。日本は黙って歩いてるけど、送りにきたがったってことは俺とふたりきりになりたいとかそういう解釈をしてもいいんだろうか?日本は何かするつもりなんだろうか?こいつが何を考えてるのか、俺にはわからない。 「あの、月が出てますよ」 それまで黙っていた日本が急に、空を指差した。そこに浮かんでいたのは満月でも三日月でもない、下のほうが中途半端に欠けてるみたいな、なんてことない形の、普通の月だった。わざわざあんなのを指差すなんて、ひょっとして俺相手に話題に困ってるんだろうかと思いながら、俺は 「そうだな」 とだけ、返した。 しばらく歩いて、隣を歩く足音が急に止んだのに気づいた。どうかしたかと思って振り返ると、日本が数歩後ろで、うつむいて立ち止まっていた。 「どうした?」 「…あの、すみませんでした」 俺に向かって頭を下げて、急に謝罪。おいおい、謝るの、今日で何度目だ? 「すみませんって、なにがだよ」 「私、電話で」 「なんの話だ?」 「イギリスさん、先週私と話してる途中で、急に電話切ったじゃないですか」 そういえばそうだ。フランスと出かけてどうしただのと嬉しそうに話す日本にイラついて、何か「知るかよ」だとか捨て台詞を吐いて、通話を切ったような気がする。 「ああ、そういえば…」 「…忘れてましたか?」 「忘れてたわけじゃねぇけど…あれがどうかしたのか?」 「…もう、怒らせてしまって、私のこと迷惑がっているかと思ってました」 「いや、別に」 「そうでしたか」 日本は胸に手をあてて、心底安心した、みたいに言う。…ちょっと待て、なんだ、そんなことだったのか?しばらく連絡ないのって、そんなことが理由だったのか? 「あんなこと気にしてたのか」 「怒ってらっしゃったので、イギリスさんの気に障ることをしたかと…」 そんなことで俺に嫌われたかもしれないと思いこんで怖くて連絡できなかったとか、でも今日わざわざ会いに来たとか。俺がどーとも思ってなかったことでも、日本なりに、俺のことについて悩んでくれて、葛藤や決意があったんだと思うと、胸の奥のほうがじんわり熱くなってきた。やっぱり俺はこいつにちゃんと思われている。ような気がする。 こんなちょっとしたことで、さっきまで俺の周りを息苦しいくらいに厚く囲んでいた孤独感が、どんどん溶けていくような気分だった。単純すぎる。こんなんだったら、悔しいけどフランスの言うとおりに、さっさと自分から連絡しときゃよかったかもしれない。 「あれは別に怒ったわけじゃねぇよ。ただ、あれは、お前がつまんない話ばっかりするから…」 口にしてから、今の言い方はまずかったかも、と思った。日本を見ると、暗がりでもわかるくらい、いつも以上に目が死んでた。 「いや、今のは違う!お前がつまんないわけじゃなくて、その、フランスのやつが」 「いえ、フォローはしていただかなくて結構ですよ…私、話はあまり得意ではないですし…はは…」 「そ、そんなことねぇだろ」 「いえいえ、私、引きこもりのオタクですので…」 …やばい。ますます気まずくなった。とりあえず日本を促してまた歩き始めたけど、まだ家までの道のりはある。でもこれ以上何を言ったらいいんだ。ヘタなことは言えないし。どうしたらいいんだ。考えを巡らせながらちらりと隣の日本(目は死にっぱなしだ)を見遣ると、ひらひらと揺れる袖が視界に入り、何か言葉でわかりあおうとするより、ここでいっそ手でもつなげばいいんじゃねぇか?と思った。 でも手って。男同士で手ってありなのか?「手を貸せ」とか言えばいいのか?いや、言わないでとりあえず握ってみるとか、そういうほうがいいんだろうか? <想定できる状況> パターン1:俺が手をつなぎたいと話を持ちかける 反応A:「誰かに見られたら困ります」などと拒否される(→死にたい) 反応B:照れながら喜ばれる(→嬉しい) パターン2:俺が無言で手を取る 反応C:「誰かに見られたら困ります」などと拒否される(→死にたい) 反応D:「手をつなぎたいんですか?」と口頭で確認される(→恥ずかしい) 反応E:無言で握り返される(→心が通じ合ってるっぽくて理想的) …ここは、パターン2で、反応Eだろ。絶対そうだろ。 だいたい話を持ちかけるなんて、「手をつなぎたい」「手をつながせてくれないか」「手をつながせてやってもかまわない」…どれも、多少アルコール入ってる今ですらとても言えそうにない。だとしたら、ここは強硬手段しかねぇだろ。日本の手はすぐそばにある。あれさえつかめば、わだかまっているものがきっと溶ける。そのはずだ。歩きながらだとタイミングがつかみにくいけど、女じゃないから優しさとかは無用、ガシッとつかんじまえばいいんだ、変に思われたら「酔ってるから」って言い訳もできる、よし、いくぞ、今だ、 「…っと」 「えっ?!急に、な…なんですか」 日本が思いっきり飛び退いた。あろうことか俺が目測を誤って、日本の腿のあたりを思いっきり触ってしまったからだ。ひらひら揺れてる袖のせいで間違えたけど、思ったよりも手は前のほうにあったらしい。そりゃ誰だっていきなりそんなとこ撫でられたら驚くだろうよ。ああもう、最悪だ。 「いやっ…別に何も」 「蚊でもいましたか?」 「…ああ。そうだ、蚊だ」 もう飛んでったからな、と平然と言い訳すると、日本は「ありがとうございます」と答えて、続けて「本気で生存競争をなさってる蚊のみなさんには申し訳ないですけど、吸われる血が微量とはいえ、やはり痒いのは嫌ですよねぇ」としみじみと言った。こいつって、やっぱりちょっと変だよな。 そういうロマンチックさとは無縁の、微妙な雰囲気のまま夜道を歩いているうちに、俺の家に着いた。俺が鍵を開けて中に入り、扉を開けたまま日本にも入るように促しても、日本は外に立ったまま、入ってこようとしない。それどころか、一歩後ずさって、 「それでは、ゆっくりお休みになってください」 と言った。 「…お前、帰るのか?」 「ええ。私はすこしイギリスさんとお話したかっただけですので」 お話って、あれで終わりかよ。ほんとにすこしだな。 「…こんな時間だし、せめて、明るくなるまでうちにいればいいだろ」 泊っていけよ、という表現を使ったら日本は嫌がるかもしれないと思って避けた。だいたい、泊るも何も、今はもう夜明けも近い時間なんだけどな。 「ご親切は嬉しいですが、ご迷惑をかけるわけにはいきませんので」 「別に迷惑でもないし、気にするなって」 「でも、私…」 「なんだよ」 「私、前例がありますから…よくないですよ」 「前例?」 「ですから、私は、イギリスさんのこと…」 そう言ったきり、日本は黙ってうつむいた。 そのとき俺はふと、フランスの家で、「ふられましたから」と自ら言ったときの日本を思い出した。俺に会いに来るくせに、連絡もまめに寄こしてたくせに、電話を切られた程度で落ち込むくせに、ここまでついてくるくせに、どこかで俺と距離を置こうとする、「仕方ない」で済まそうとする態度。たぶん、あの始まり方と、俺が一度ふったことがこいつの心にひっかかってるんだろう。そんな気がした。 俺はこいつが必死に追ってくるのを、必死でつかまえてこようとするのを見ていたいと思ったけど、萎縮したように頭を垂れる日本を眺めていると、もう、俺の気持ちはお前からそんなに遠いところにいるわけじゃないって、俺から言うしかないんだろうか、と思えてきた。 「待てって」 後ずさるようなそぶりをした日本の腕をとっさにつかむと、日本がびくりと身震いした。俺だってつかむつもりなんかなかったから、自分でも驚いた。でも、ただ、今はこいつをどうしても逃しちゃいけない、そんな気がした。 でも、つかまえたところで、何を言えばいい?全然考えてなかった。ああ、くそ、どうにでもなれ。 「あー…もし、お前が、その、前に俺が断ったことを気にしてるんならあれは、もう、今は俺も気持ちが変わったというか。だから、別に、お前のことは嫌じゃないし…」 こんな大事な時にこんな言い方しかできないなんて、本当にどうしようもねぇな、と思う。日本は腕を掴まれたまま、目を見開いて、俺の言葉の続きを待ちうけている。でも、俺から言いたいことは、以上。頼む、察してくれ。あれだけでも、お前なら、俺の言いたいことは、わかっただろ? 心拍数が上がってるのが自分でもわかる。日本は何も言わないままで、沈黙が痛い。日本の肩越しには、ちょうど青白い月が見える。月?さっきは、月が何だって?そんなん知るかよ。ちくしょう、月の話なんかよりもっとするべき話があっただろ? 急に暑くなってきて、息が苦しくなる。日本の腕を掴んでいないほうの手で、シャツのボタンをひとつはずす。ついでにもうひとつはずして、襟元を緩めた。ふと日本の顔を見ると、日本は俺の開いた首元を凝視している。身長差があるからそのあたりに目がいくのは当然なんだけど、日本がそこを見ながら耳まで真っ赤にしてるもんだから、妙に気恥ずかしくなってきた。そんなつもりはなかったけど、タイミング的に、今の仕草は俺から誘ってるみたいに見えやしなかっただろうか? 「…イギリスさん、酔ってますよね」 永遠に続くんじゃないかと思った沈黙の後、日本が出したのはそんな返答だった。 「酔ってねぇよ」 「でも、あんなに飲んでらっしゃったのに」 「あれくらいの量、別に…」 どういうわけか、日本の声はちょっとこっちがビビるくらいに落ち着いている。 「でしたら、イギリスさん、きっと今、寂しいだけですよ」 「…へ?」 さっきまでさんざん俺が思っていた「さびしい」という言葉が日本の口から出てきたのに一瞬ひるんで、つかんだ手をゆるめてしまった。 「今すこし、人恋しいだけですよ。ですから、あの、そういうことは、お酒の入っていない時に冷静になってよく考えてからおっしゃったほうがよろしいかと、思います。それでは、失礼します!」 日本は早口でそう言うと、俺の手を振り払って素早く身を引いた。ドアが大げさな音を立てて閉じる。 「おい…」 日本の腕をつかんでいた右手は、宙をさまよって、ドアの手すりにかかった。冷たくて硬い真鍮。そのまま縋るように寄りかかり、古びた扉に額をつけた。 日本は、今、何て言った?俺がさびしいからだって?さびしいから、今だけお前を必要としてるってことか? 何言ってんだよ、違うだろ、それは。確かにさびしいことはさびしいけど、そんなんじゃねぇよ。俺はそりゃ、友達も少ないし恋人もいないけど、精霊だの妖精だのは周りにいてくれるし、何百年もそういう状態には慣れてたんだ。さびしくなるときは絶対にないってわけじゃないけど、耐えられないほどじゃない。 それなのに、今はどうだ。さびしくて仕方がない。それというのも、日本、お前が俺のことを好きだって言ったからだ。俺のことを好きでいてくれる奴がそばにいるなんてこれまで考えもしなかったのに、お前が震えながら俺のこと好きだって言った瞬間に、俺がずっと平気な顔して自分で支えてた柱みたいなものが崩れて、直しようのない穴が開いて、そこがずっと疼いてどうしようもないんだ。ほら、日本、すべてお前の責任だろ?俺をさびしくさせたのはお前以外の誰でもないじゃないか。それなのに、なんで俺がただ酔っ払って人恋しいだけで、誰でもいいから誘ってるみたいに言うんだよ。 俺の手を振り払った日本の姿を思い出して、冷たい真鍮の手すりに唇をつけた。なぞるように、上から下へ何度か軽く口づける。物足りなくて、古めかしい飾りの溝にも舌を這わせた。不意に涙があふれて、それが頬をつたって唇までたどり着き、金属の味のする口の中に塩辛さが広がった。 身体の奥にこもったままのような熱がもどかしい。もうどうにでもなれ、そう思って、ドアにしがみついたまま、片手でベルトを緩め、ジッパーを下げた。身体をこすりつけると、古びた木の硬さと冷たさに身震いがする。ちくしょう、日本は今頃ひとりで月でも見てるんだろう。あの変な足音をたてて。待ってくれ。行かないでくれ。俺は今どうしようもなくさびしいんだ。誰でもいいわけなんかないだろ? 「…日本」 ドアに響かせるように名前を呼んだ。 「はい」 ドアが返事をする。…まさか、な。 「…日本?」 「なんですか」 「……」 「私を今呼びませんでしたか?」 確実にドアの向こうから、日本の声が聞こえる。 「え、おまえ、そこにいたのか…?」 一気に顔に血が昇るのがわかる。まずい。変な声とか外に漏れてねえよな? 「はい。ええ、戻ってきましたが」 「帰るって言ってただろ」 「あの、やはり、なんにせよ、さびしがっているイギリスさんをひとりにしてはおけないとおもいまして…」 また戻ってきたのかよ、お前、いちいち戻ってくるくらいなら最初からいろよ!ああ、もう! 「い、いつから戻ってたんだよ」 「ちょうど今来たばかりですが、何か」 「いや、いい。それならいい!」 どうにかジッパーをあげて、身なりを整えようとするけど、肩でドアを押さえながらだと全然うまくいかない。 「…あの、先ほどは申し訳ありませんでした。イギリスさんの言葉に、私も気が動転してしまって」 「あ、ああ!そうか!そりゃ動転するよな!」 「それで、もし、私でよろしければ、そばにおりますけど」 「ああ、いや、頼む!でも、ちょっと待て!」 もう、焦って、自分が何を言ってんだかよくわからない。ただ、今は、とにかくあっちからドアを開けられたらまずい。 玄関のドアは古いからロックじゃなくて、鍵をかけないと閉まらないタイプだ。鍵はさっき開けたばっかりだからすぐそこにあるけど、日本が扉の向こうにいるのに鍵をかけなおすのも変に思われるし、だからといって日本が不意にドアを開けて、今この俺の、下半身さらけ出してドアにしがみついてる状況を見られたら、変態確定だ。気まずいどころじゃなくて絶対に軽蔑される。 違うんだ、俺はただドアにこすりつけてたわけじゃなくて、お前のことを考えて、つい…ああでもどっちにしても日本から見たら、ただの気持ち悪い奴っていうだけで終わりだよな? 「イギリスさん、あの、どうかしましたか?開けてもいいですか…?」 日本がドア越しに、囁くように言った。うわ、その声、ちょっと、くる。でも今はドキドキしてる場合じゃない。 「ちょ、もうちょっと待て!」 「え?あ、はい」 「さ、最近扉の調子が悪くて、開かねぇんだよ」 「そうなんですか?こちらからも押しましょうか」 「いや!それは待て!大丈夫だ、コツがいるんだ。すこし待ってろ」 急いでベルトを締めなおし、シャツの乱れを直す。他、どこもおかしくないよな?ああ、別にそこまで本格的にしてたわけでもないけど、できれば手も洗いたい。口の中もまだ変な金属の味がするし、鏡も見たい。けど、このまま待たせてると不審がられるだろうし。とりあえず、涙にぬれた顔はシャツの袖でこすって、髪を適当に直して、深呼吸をして、「待たせたな、今、開けるから」と少しドアの調子が悪いように、ガチャガチャいわせてから、開けてみた。 日本はすぐそこに立っていて、「意外と普通に開きましたね」と言うと、すこしかがんで鍵穴をのぞくようなそぶりを見せた。 「き、気まぐれなんだ。壊れたり、直ったり」 「私の家も最近、いろいろと壊れることが多いんですよ」 「そうか、お互い、古いと困るよな、はは」 「あの、先ほどは、すみません、私…」 家の話から急にさっきの真面目な話を持ち出されそうになって、どきりとした。 「お前、何度も謝るなよ」 「でも」 「いいから」 もう、こんな玄関先でいつまでも謝罪だの言訳だのをしてないで、とにかく先に家の中にひっぱりこんじまおうとしたら、急にさっき自分がしようとしていたこととそのあと手を洗ってないことを思い出し、日本の腕をつかむのも着物をつかむのも、なんとなくためらわれた。ちくしょう、こんなことなら先に洗いに行けばよかった。 中途半端な位置で停止したままの俺の手を不審に思ったのか、日本が「どうしましたか」と、俺の顔を見上げてきて、俺は反射的に思いっきりのけぞってしまった。どうしよう、なんか、日本がさっきと違うふうに見える。もちろん日本はさっきと同じ顔で、同じ格好、なんだけども。どことなく、光っている。ような気がする。これはたぶん、俺がついさっきまでひとりで盛り上がってあんなことをしていたせいなんだけど。 「…光ってる」 日本を見ながらそう呟いてしまった俺に、日本はまさか自分のことを言われたとは思わなかったらしく、「え?」と後ろを振り向いた。そして、そこの空に浮かぶものを発見して、「ああ、月ですか。ここからちょうど見えるんですね。きれいですね」と言った。 月じゃなくてお前だよ、ばーか。そう正直に言うわけにもいかなかった俺は、日本の勘違いを訂正することもなく、「そうだな」と答えて、笑って、空中に浮いていた手は適当に振ってごまかした。 でも、さっきはどうでもいいと思った、下がちょっと欠けているどうってことない形の今夜の月も、日本にそう言われてみると、確かに、特別であるような気もした。どこがいいか、と聞かれると困るけど、強いて言うなれば、日本がちょっとでもいいと思ったものを俺に示して、同意を求めてきたっていうのが特別なことなんだ。 たぶんそれは愛で、そういうことで俺のさびしさは消えていって、あとはお前が一歩こっちに進んで家の中に入って、後ろ手にドアを閉めてくれれば。それで、今夜は完璧だ。 Aug.14.2009 |