楽 園 の 東





 陽泉はミッション系で、生徒に信仰を無理に押しつけはしないが、教育の一環として礼拝の時間がある。神を信じている信じていないにかかわらず、生徒は講堂に集められ、祈り、聖歌を歌い、牧師か教師による話を聞いて、解散する。ただ、話の間はここぞとばかりに寝ている生徒も多く、特に朝練を終えたばかりのバスケ部のメンバーはほとんどが沈没していた。
 氷室は特に信仰心は持っていなかったが、別段眠くもなく、こういった場で眠る習慣もなかったので、教師の話に耳を傾けていた。礼拝の話では聖書のこれまで聞いたこともない様な部分を取り上げることも多かったが、その日に担当した教師は、誰でも一度は聞いたことがある有名な話を取り上げていた。聖書の世界における人類最初の殺人、最初の嘘。しかも兄が弟を殺すという、いかにも扇情的な展開。カインとアベルの話だった。

 よく知られたそれは、カインとアベルが兄弟二人でそれぞれ神に捧げ物をしたが、神が弟アベルの供物である羊には目を留めたにも関わらず、兄カインの供物である穀物は無視したことから、兄カインが嫉妬し、草原で弟を石で殴って殺す、という話だ。
 ここで、そもそも神がなぜカインの捧げ物を無視したかについては、様々な解釈がある。アベルの捧げ物の羊が神の子を指していたから、農耕民族の生活は当時評価されていなかったから、捧げ物をしたときのカインの心が傲慢だったから、などという説があるが、この日の教師はそれとは別の解釈を話した。

 捧げ物が理由、という説には無理があるような気がします。それよりも、神がカインの捧げ物を無視したことに特に深い理由などなかったとしたら、どうでしょうか。人生にはこのようなことがよくあります。自分に非がないのに、苦しい思いをすることです。みなさんも、どうにもならないことで悩むことがあるでしょう。どうして自分ばかりがこんな目にあうのか、誰かと比べて、自分はどうしてああなれないのか、と。特に大きな不幸が訪れなくとも、人間は自分自身に生まれついた、というそれだけで、十分に悩み苦しむ理由になるのです。この話は人間だれしもが持つ悩みと、弱さについても説いているのです。







 背の高い草が一面に広がる草原だった。氷室は草をかき分けながら、すこし先を走る火神を追いかけていた。遊んでいるのではなく、火神は追いかける氷室から必死に逃げているのだ。捕まえようとする火神の背には、白く大きな翼が生えている。それは氷室には生えていないものだった。ふたりはもつれるような足取りで草原を走り続け、なかなか氷室の手は火神に届かなかったが、一瞬距離が縮まったときに、氷室は手を伸ばしてその翼をつかみ、地面に引きずり倒した。火神の体は氷室より大きいにもかかわらず、倒すときには驚くほど抵抗がなかった。
 氷室にのしかかられ、地面に押し付けられた火神は「どうして、タツヤ」と困惑と悲しみに満ちた目で問う。

 どうしてって、タイガ。簡単だよ。オレがお前じゃないからだよ。オレはお前にはなれないからだよ。お前がオレにないものを持っているからだよ。かわいそうなタイガ!

 氷室はひといきにそう告げると、手に持っていた尖った石を、火神に向けて振り下ろした。


 自分自身の叫び声で飛び起きた。夢だった。まだあたりは真っ暗で、時計を見ると3時を指している。もう肌寒い季節というのに、いやな汗をかいていた。ただの夢のはずだが、すべてのイメージがあまりに鮮明で、氷室は戦慄した。手に握った石の感触がまだ残っているようだった。
 教師の話にすこし自分を重ねてしまったからって、あまりに悪趣味な夢だ。オレはあんなことはしない、いくらタイガの才能を羨んでいたとしても、するわけがない!と、起き抜けのまだ混乱した頭で氷室は必死に否定した。

 でもあの顔、「どうして、タツヤ」と言った火神の顔には覚えがあった。氷室が思い出を賭けろ、つまりは兄弟でいるのをやめる、と言ったときの火神の顔だ。あのときは、殺さなくても、手をあげて、火神がショックを受けるだろう言葉を吐いて、火神を傷つけた。大事にしていた弟分を、妬んで、憎んで、この手で傷つけたのだ。さらに怖ろしいことに、その暗い感情は消えることなく、いまだに氷室の心の奥の方で静かに燃え続けている。

 聖書の話では、弟を殺したあと、カインは楽園エデンの東に追放される。それとは違い、氷室が傷つけた後は、火神のほうが家の事情でアメリカを去った。今はふたりとも日本に戻ってきていても、何百キロも離れている。離れているから大丈夫だ。どんな嫉妬に駆られても、あの夢のようなことにはならない。絶対にさせない。
 氷室はベッドサイドに置いてあった指輪を手に取り、強く握って、神ではなくてもその昔、火神にこの指輪を渡したときの気持ちに誓った。オレが守る。自分であんな夢を見て、今も押さえきれない感情を抱えておきながらこんなことを言うなんて、気がおかしいと思われるかもしれないけど、離れていてもオレが守るよ、タイガ。オレの弟。











Oct.2.2012