ロング・グッドバイ (一) 兄弟の仲を修復したウィンターカップの後から、氷室と火神の関係は少しずつ昔のように近づいていった。 とはいっても距離は離れているので頻繁に会うというわけにはいかなかったが、たまにメールや電話で近況を報告したり、他愛もない話をするようになった。大会で一緒になれば、火神はチームの団体行動の規律を乱してでもこっそり氷室に会いに行った。休みの期間にはアレックスの来日などに合わせて氷室が東京を訪ねて来ることもあった。そういうときは火神の強い希望で氷室は火神の家に泊まったが、火神は兄貴分が泊まりに来るのが嬉しくてたまらないらしく、いつも楽しみすぎて寝不足というのが明らかなほど真っ赤に腫らした目で氷室を出迎えるのであった。 そんなふうに過去の確執が嘘だったかと思うほど穏やかな関係が続いていたので、氷室が3年生の冬を迎え、東京の大学に進学が決まったことを告げると、火神は飛び上がって喜んだ。そしてここぞとばかりに「自分の部屋に住んだらいい」「ここに住めば部屋もあるし家事だって俺がやるからタツヤはしなくていい」と同居の話を熱心に持ちかけてきたが、火神の住むマンションはあくまで火神の親のものであるし、「安く済む」「何もしなくていい」と説得されるほどに弟分に世話をされることに対する抵抗感が氷室の中で増してしまい、結局、氷室は別にアパートを借りることにした。希望を叶えてやれなかったこともあって火神の家から1駅の、歩いていける距離の街を選んだが、それを告げると火神は喜ぶより先に「そんなに近いんなら俺の家でよかったじゃん」と拗ねた。 春がきて、氷室は大学生になり、火神は3年生になった。自他とも認めるバスケバカである氷室は大学でもバスケを続けたが、将来プロとしてはやっていけないことも頭の片隅で自覚していたので、講義にも真面目に出ていた。しだいに新しいチームメイトとの交流が深まり、授業で知り合った友人も増え、氷室の新生活は順当に忙しく、騒がしくなっていった。 家が近いこともあり、火神からは「夕飯うちに食いに来いよ」というような軽い誘いが頻繁にあった。部活が遅くなったり他の友人との先約があることも多く、毎回誘いに乗れるわけではなかったが、氷室はできるだけ行くようにしていた。同居を断った引け目もあったし、あの広い部屋で寂しそうにしている火神を想像すると抗いがたいものがあった。あとは火神が氷室の好物や好きな味を意識して作るので、単に火神の作る料理が食べたいという理由もあった。 そうやって誘われた時に、氷室が大学の話や新しいチームの話をすると、いつも火神が自分の知らない大学生活の様子の話にもどかしそうにしているのが手に取るようにわかって、そのたびに氷室はくすぐったい気持ちにさせられた。氷室がジュニアハイに上がって、だんだん距離ができてきたころもそんな気持ちになったことがあった。さらに兄貴ぶって「タイガは進路どうするんだ?」と聞くと、火神は「まだ決めてねーけど・・・大学でタツヤとまた戦いてぇな」と照れながら答えた。 夏になり、インターハイが終わると、火神にはスポーツ推薦の話がいくつも来た。しかし肝心のどこにするかを決めきれないらしく、秋が訪れても返事を先延ばしにしてしまっているようだった。ある日「相談したい」と連絡を受けた氷室が火神の家を訪ねると、ローテーブルに書類を並べて、ソファに座った火神が頭を抱えていた。見るからに困り果てて誰かの助言を欲している様子に、兄貴分としての血が騒いだ。 どこから推薦の話が来ているのか聞くと、火神は書類を粗雑にまとめて氷室に手渡し、名門バスケ部を抱える大学名をいくつか挙げた。 「すごいじゃないか、タイガ。どこも強豪だよ。その中だったら、どこがいいかな・・・×××とはこのまえ対戦したけど、良いチームだったよ。チームの雰囲気も良かったし」 「でもそこ、関西なんだよ」 「他の場所で暮らすのも意外と楽しいかもしれないだろ?秋田も行ってみたらいいところだった」 「でも・・・」 「ああ、タイガは都内からは離れたくないのか?そうか、この家もあるしな。だったら・・・」 「・・・タツヤ、俺さ・・・」 大きく育った図体の割に、今日の火神はずいぶんと小さく縮こまっていて、思いつめた表情でなにか言葉を発しようとしては、ためらって押し黙ってしまう。いたずらしたことを打ち明けようとしても叱られるのがいやで言い出せない子供のような雰囲気に、また氷室の兄貴としての性分が刺激された。 「タイガ、どうしたんだ?なにか問題でもあるのか?」 氷室は火神の近くのソファに座り直すと、何やら伝えようと思い悩んでいる火神の発言を根気強く待った。こんなことがアメリカにいたときもあったな、あのときはどうしたんだっけ、タイガが芝刈り機を壊したんだっけ、などと過去の日々を思い返しながら。 「・・・あのさ、言おうか、ずっと迷ってたんだけど、俺」 「ん?」 「タツヤのことが・・・好きだ」 火神は資料の束を氷室から奪ってローテーブルに放ると、代わりにその冷たい手を取って、拙い言葉の代わりに気持ちを伝えるかのように強く握り、燃えるような瞳で氷室を見つめた。 「今まで隠してきたけど、俺、ずっと、タツヤのことが好きで・・・その、そういう意味で。だから、もう・・・遠いとこ行ってアンタから離れたくねえんだ」 発せられた言葉の意味を理解すると、氷室は燃え滾るほどの熱い血が瞬時に全身を駆け巡ったような気がした。そしてその熱さと共に氷室の頭にまず浮かびあがったのは、「こんなときに、なんで俺にそんなことを言うんだ」という、眩暈がするほどの怒りだった。 ―――バスケに愛されて、仲間から愛されて、才能とチャンスに恵まれている。そんな男が、俺のことが好きだと。現にこんなに多方面から才能を求められている人間が、そんなつまらないことで、判決を待ちうけるような顔で俺の顔色を伺ってくる。俺のせいで遠くの学校には行きたくないなんて、何を言ってるんだ、タイガ。目を覚ませ。お前は何が重要か、まるでわかっていないんだ。お前には才能があるんだから、こんな瑣末なことで道を踏み外しちゃいけない。戻るんだ。今なら戻れる。自力で戻れないっていうのなら、俺が戻してやる。 突き放そう。そう決意したときには、燃えあがった血が次第に端から凍りついていくようだった。 黙ったままの氷室の態度が不安になったのか、火神は握った手に力を込めると、「タツヤ・・・?」と、いつも前髪で隠れてよく見えない氷室の表情を覗き込んできた。 「・・・悪いけどタイガ、お前とそういうことは考えられないな」 表情を知られないように他所に向き直りながらそう言うと、思ったより冷酷な声が出て、氷室は自分でも驚いた。隣に座る火神が息を飲むのがわかった。 「・・・やっぱ驚かせたよな・・・わりぃ、でも俺、ほんとに、タツヤのこと」 「やめろ、聞きたくない」 「タツヤ!」 氷室が火神の手を振り払って立ち上がり、ソファの背に放りだしてあったコートを手にして帰るそぶりを見せると、火神は慌てて「待てよ」「急でホントに悪かった」「ちゃんと話したい」などと悲壮な声で説得してきた。 氷室に話を聞く気がないとわかっても、それでもどうにか引き留めようと腕をつかんできた火神を、氷室は勢いをつけて思い切り殴った。 人を殴ったのは久しぶりだった。火神は殴られるとは思わなかったのか、後ろによろめいて、倒れはしなかったがそのままゆっくりと床にしゃがみこんだ。 「いい加減にしろ、タイガ。お前とは無理だって言ってるんだ」 殴られた頬を押さえて茫然としている火神に「しばらく頭を冷やせ」とだけ言うと、そのまま振り向きもせずに火神の家を出た。 火神は追ってはこなかった。氷室は自分の家へ足早に向かったが、火神の発言に対する怒りがまだおさまらず、さらには火神が愛情を告げたことに対する驚きと興奮が今になってやっとわきあがってきて、心臓がうるさいほど高鳴っていた。 ―――あのタイガが、幼かったタイガが。WCで優勝して望まれている男が、俺のことを、あんなふうに思っていたなんて! 火神に強く握られた手が熱くて、まだ掴まれているようだった。 ―――でも俺は兄貴分として正しいことをしたはずだ。これでいいはずだ。 こもった熱を払うように、そう何度も繰り返し自分自身に言い聞かせながら歩くうちに、いつの間にか帰り道を間違えていた。そのため本来は20分で着くところを結局1時間歩いて、氷室はやっと家に辿りついた。 その後、火神から何も連絡がないまま数カ月が過ぎた。近くに住んではいるものの、駅や道端で偶然会ったりすることもなかった。 次に会うときには、もう一度話し合おうとするか、それとも何もなかったようにふるまってくるか。氷室はどっちもありそうだと考えながら火神の出方を待っていたが、予想外なことに、てっきり日本の大学に進むと思っていた火神は、すべての推薦を断ってアメリカに渡りロサンゼルスのカレッジに行くことに決めていた。氷室がアレックスからその話を聞いたのは、火神がすでにアメリカに発ったあとだった。 アレックスは秋以降に火神から頻繁に進路の相談を受けていたらしく、「タイガから、どうしてもタツヤには出発まで黙っててくれって言われたんだよ。おまえらほんとにめんどくさいな。今度は何があったんだ?」と電話で文句を言ってきた。 少し前まで、スポーツ推薦もらえそうだから日本の大学に行く、大学でまたタツヤと戦えるの楽しみだぜ、と嬉しそうに話していた男が何も告げずにアメリカに渡っていたことに氷室は虚を突かれたが、ああ、そうだったのか、と腑に落ちる部分もあった。 あの告白について、進路の相談で呼び出したくせにいきなり何を言いだすのかと思っていたが、氷室の返答が進路決定の条件に組み込まれていたんだろうか。もし自分があのとき火神の思いを受け入れていたら、あの資料にあった東京の大学にしたのか。優しく諭して断ったら、関西の大学にしていたのか。冷たい言葉を投げつけて殴ったから、海の向こうに逃げていったのか。 ―――また、これだ。タイガは、海を渡ればすべて無かったことになるとでも思っているのか。 そうはいっても、米国はバスケの本場で、火神は英語だって話せるのだから、結果としては一番良い選択肢に思えた。おそらく手酷く傷つけはしたのだろうが、結局のところ、兄貴としてはうまく最良の道に導けたはずだ。 氷室はそう結論付けて納得したが、アレックスから電話で火神の渡米を聞かされたあと通話を切ると、喉の奥が締め付けられるように痛み、きつい練習でも経験したことのないほどの吐き気がこみあげた。うずくまって頸を押さえて数度えずきはしたものの、結局何も吐き出すことはなかった。 その場でしゃがんだままじっとしていると次第に痛みと吐き気はおさまっていったが、今までこんな症状になったことがなく、思い当たる原因もなかった。一体何だったんだろうと氷室は不思議に思ったが、その後は再発もしなかったので、ひと月も経つとそのことはすっかり忘れてしまった。 (二) 氷室は大学でもバスケを続けたが、その後はバスケを本気で続けるのはやめて、アメリカに戻って大学院に進むことにした。バスケでプロとしてやっていけないことを思い知るのは氷室にとって何度味わっても苦い屈辱だった。アメリカに行くことにしたのは、日本の友人のほとんどがバスケ部の仲間だったので、バスケをやめるにあたり環境を変えたかったこともあった。 行き先は東海岸を選んだので、ロサンゼルスにいるという火神に会うこともないだろうと思った。同じ国の中でも、ふたりのあいだには4000キロと3時間の時差がある。 大学院の勉強は予想以上に大変だったが、合間にアルバイトも兼ねて、授業で知り合った友人が在学中に立ちあげた事業を手伝うことになった。 その友人は氷室の、物腰が柔らかいくせに妙に強固で手段を選ばないところと、人に取り入るのが妙にうまいところを買っていて、ぜひ手伝ってほしいと頼み込んできたのだった。氷室自身もバスケをやめたので他の全く違う新しいことを始めたかったのもあり、その申し出を快諾した。 軽い気持ちで始めた手伝いだが、立ちあげた事業は予想をはるかに上回る好調さで、急速に成長した。そのため氷室は卒業したらそのままそこで働くことにし、拠点をニューヨークに定めた。 アレックスも以前と変わらずロサンゼルスにいたが、あの告白から顔を合わせていない火神とは違って、たまに電話やメールで連絡を取っていた。火神もアレックスとはよく会っているようだった。かつての師匠は弟子同士がまた仲をこじらせているのを心配というより「お前らまた何やってんだ」と呆れて見守っていたが、ただ、普段の彼女ならもっと遠慮なく割り込んできそうなところにも気遣いが感じられることがあったので、ひょっとしたら火神から何か事情を聞いたのかもしれないと思うこともあった。 そのアレックスから、カレッジリーグの後はデベロップメント・リーグにいた火神の、地元のNBAチームへの入団が決まったと連絡があった。火神はついにバスケットボールをする誰しもが描く夢を叶えたのだ。 日本のほうが大きく報道されているというので、氷室がネットで久しぶりに日本のニュース映像をチェックしてみると、NBAチームに日本人が入団するということでかなり話題になっているようだった。記者会見の映像を再生すると、緊張気味に記者の質問に答える火神の姿が映し出された。最後に顔を見てから、いつの間にかもう6年が経っていた。印象は変わっていないが、頬の肉が青年らしく落ちて精悍になり、より選手らしい体型になっている。ただ、日本にいる間は少しはましになってきていた敬語はまた悪化していて、インタビューに対する答えはひどかった。火神が「頑張る、です」と言った時に氷室はつい笑ってしまったが、そのときアップに映った火神の首に光るものが見えて、その笑いもすぐに凍りついた。あまり鮮明な映像ではないものの、十分すぎるほど覚えのあるリングだった。 映像を途中で止めると、氷室はベッドサイドのキャビネットにしまっていた古びたリングを取り出した。もう火神の中では、氷室が与えたリングだという意味を失って、ただのお守りとなっているのかもしれない。それでも、突き放して、逃げて、離れて、何年も離れたままで口もきいていないのに、手のひらの上で同じように鈍く光るそれを握りしめると、まるで火神とは片時も離れていなかったような不思議な気がした。 同時に、同じリングを持つ片割れが夢を叶えているのに、自分ときたらいったい何をしているんだ、なんでああなれなかったんだと、もうすっかり消えたはずの嫉妬心と傷つけられた自尊心が胸の奥底でまた小さく悲鳴を上げた。 火神にとっては美しい思い出のお守りかもしれないが、氷室にとってはもはや呪いのようだった。夢に向かって進み続ける権利を与えられた火神と、いつまでもつながっている証拠。離れられない証拠。いつだって思い出させる。タツヤすげえな!と言ってきた彼の尊敬に満ちたまなざし。そして自分に訪れた能力の限界。努力の限界。そこから何を諦めて、何を棄ててきたのか。リングの鈍い光は、いつもそれらを繰り返し告げてきた。 それでも手のひらの上のリングを棄てることはできなくて、キャビネットの奥深くに戻そうとしたが、ふと思いついて、チェーンを通して何年かぶりに首にかけてみた。バスルームの大きな鏡で見てみると、運動をやめてからずいぶん肉が落ちた自身の姿が映った。 「似合わないなあ」 氷室は嘲笑うようにそうつぶやき、胸のリングを指ではじいた。 (三) NBA入りしたと言っても、火神が入団したチームは、常に優勝争いに絡んでいるようなチームではなかった。そして火神自身も順調とは言えなかった。入団後はなかなかレギュラーが取れず、やっと安定して試合に出られるようになったかと思ったら監督が交代してチームのスタイルが変わってしまい、一からレギュラー争いのやり直しになった。さらには火神の怪我が悪化して、半年近くチームを離れることもあった。 氷室はスタジアムまで足を運ぶことはなかったが、火神の出るほとんどの試合をテレビで観戦していた。最初は火神が活躍したときは窓から通りに向かって「He’s my bro!」と街中に叫びたくなるほど誇らしいこともあったが、だんだんチームと火神自身の調子が悪くなっていくのを、はがゆい気持ちで見守ることになった。 その一方、氷室の仕事は順調で、ひたすらに忙しい日々が続いていた。ただ、そのまま順調に拡大するかと思った事業は、あるとき大手企業に目をつけられ、あっけなく買収されてしまった。買収後は邪魔者扱いされてクビにされるのだろうと覚悟していたが、買収相手のトップが交渉時に会った氷室のことをいたく評価していたらしく、新組織で提示されたポジションと年棒は予想をはるかに超えるものだった。 なんでも、最初は自社に有利な契約だったはずなのに氷室と話しているうちにいつの間にか不利な条件も当然のように受け入れてしまっていた、こいつは絶対敵に回したくない、と怖ろしいものでも見たかのように語っていたということだった。 新しい組織での収入もあったが、前の会社で持っていた自社株が急に高騰したこともあって、気が付くと氷室の貯蓄は年齢にしては異様な増え方をしていた。しかも運用は面倒だったので知り合いの信託会社にすべて任せていたら、知らないうちにさらに増えていた。 氷室という男は華やかな見た目に反して、日常生活であまり金を使う方ではなかった。郊外に豪邸を建てるよりも都心にフラットを借りたほうが身軽で良いし、オフィスから歩ける距離に居を構えたので、学生時代に買った中古車も新しいものに買い変えるどころか売ってしまっていた。妻子もないし、恋人はできてもどういうわけか毎回貢ぐより貢がれる方だった。金を使ったなと感じたのは、気晴らしのために買ってしまったビリヤード台くらいだった。 そのため、増えていく資産を見ても、これがアメリカンドリームってやつかな、と他人事のように思うだけだった。 火神がNBAチームに入団してから2年が経ち、氷室も新しい仕事に慣れてきた頃。氷室が仕事で投資先の候補のリストを眺めていると、ひとつの社名に目が止まった。火神が所属するチームのメインスポンサーをしている電気機器メーカーだった。氷室はその瞬間、何かの天啓を受けたように感じた。 かつて目的のためなら手段を選ばないと言われていた兄貴分は、その後、その電気機器メーカーの件を半ば強引に推し進め、そう時間をかけずに話をまとめた。この企業はここ数年の業績悪化で経営が傾いているので一度出資を受けて立て直したい、そのため長年続けてきたNBAチームのスポンサーも辞めようか検討しているとのことだったが、とりあえず氷室はそれを思いとどまらせ、むしろこの部分こそが復活の契機であるという方向に話を持って行った。 そしてそれをツテにして西海岸まで赴き、火神のチームの関係者に会った。そこで氷室は持ち前の他人を魅了する能力を惜しみなく駆使し、わずかな時間で関係者数人と個人的に親しくなって帰ってきた。 親しくなって最初はバスケの話題などについて話しているだけであったが、しばらくするとチームの経営面の悩みを聞きだすようになり、それに対して「選手の補強でお困りでしたら知人に強力な交渉人がいますが、安価で引き受けてもらえるように頼んでみましょうか」などと何気ない風に話を持ちかけた。その結果、他チームから期待の若手選手を4人移籍加入させることに成功させ、さらには氷室がチームに個人としてはかなり多額の寄付までしたので、関係者はすっかり氷室に気を許すようになっていた。 氷室はそれだけにとどまらず、練習設備の補修資金や、地元ファンとのイベント運営にまでさりげなくアドバイスし、ついには、有能なチームドクターも他チームから引き抜いて送り込ませた。 時が経つと、いろいろな変化が功を奏した。華のある若手選手たちの活躍でチームに活気が出はじめ、順位も上がり、離れがちだったファンも戻ってきた。そして火神自身の調子も上がってきていた。 氷室はチーム関係者ではないが、いつのまにかフィクサーのような立場になっており、このスポーツメーカーが提携したいと言ってきたがどう思うか、スタジアムの周囲を開発したいがどう思うか、そういうときまず氷室に相談することがあったし、それが当然のようになっていた。 氷室のはたらきが顕著になるにつれ、チーム側から正式なポジションを用意したいという提案もあったが、氷室はあくまでも個人的に裏から支えたいだけだからと、その話を丁重に断った。それだけでなく、チームがお礼に渡そうとした最前席や関係者席のチケットですらも受け取らなかったので、なぜ仕事の範囲外であることにまでこんなに献身的に取り組んでくれるのかと関係者の間ではよく話題になったが、結局何もわからず、ただ氷室が過去にバスケバカとも呼ばれていた男であり、今は酔狂な金持ちだからだ、というところで推測は終わってしまった。 氷室は自分の思いや意図、火神との関係について誰にも語らなかったので、最初に補強した若手選手4人のポジションが火神と被っていないことにも、チームドクターの引き抜きは火神が以前に怪我を軽視して悪化させたためであったことにも、とうとう誰も気がつかなかった。 (四) 火神が結婚すると聞いたのは、氷室が30歳、火神が29歳の春のことだった。氷室が火神のチームに手を出すようになってから3年が経ち、そのころにはチームの勝率も上がり、常に上位争いに食い込むようになっていた。 またもやアレックスから急に「タイガがタツヤにも結婚式に来てほしいって言ってるんだけど、来るよな?」と電話で知らされ、氷室は目の前が真っ暗になったように感じたけれども、どうにか動揺が電話の相手に伝わるのを抑えた。 「へえ、タイガ結婚するんだ・・・おめでとう」 「それは直接言ってやれよ」 「で、相手はどんな女性?」 アレックスが知ってる限りでは、相手はアメリカ人だという。そしてアメリカ人にしては落ち着いた印象の女性らしく、数年前、試合にも出られず怪我も長引いて火神が落ちこんでいたところをずっと支え続けてくれて、火神も非常に感謝しているのだという。 「そうか・・・良い人が見つかってよかったな。俺は・・・式は出なくていいから、アレックス、今度写真見せてくれよ」 「なんだよ、式くらい出てやれよ」 「もう10年も会ってないしさ。花は送るよ、式場と日時だけ教えてくれ」 不満げなアレックスをさえぎって、手短に用件を済ませて通話を切った。 あの燃えるような瞳で「好きだ」と訴えてきた火神が結婚する。あんな別れ方をした男を結婚式に呼ぶということは、もう氷室については何のわだかまりもない、兄として来てほしい、ということの意思表示だろう。 素直に祝福するべきだった。火神をこの正しい道に戻すために、あのとき突き放したのだから。その結果火神はNBAに入って、チームで定位置を手に入れて、優勝争いするほど成長し、まっとうに女性と結婚する。こうなるためにずっと陰から支えてきたのだ。 ―――そうだ、タイガは何も知らないけど、俺だってずっと支えていたのに。すべてうまくいってるのが相手の女のおかげだと思っている。相変わらずバカなタイガ! 過去の選択に後悔はなかった。火神が好きだと言ってきたその瞬間に時が戻せるとしても、また同じように冷たくあしらって突き放すだろうと思った。自分が火神のためにしたことだって絶対に知られたくなかった。それでも火神の結婚のことを思うと、胸の奥からの痛みと吐き気に襲われ、氷室は家のソファに横になって目を閉じ、胸を押さえた。 この痛みと苦しさには覚えがあった。火神が黙ってアメリカに渡ったときだ。あのときも同様の症状が出て、結局原因がわからないままだった。 あのときは何もわからなかったが、氷室は今になってこれが、たったひとりの愛する男と引き離される痛みと、「行かないでくれ」という言葉が喉の奥にひっかかったまま吐き出せない苦しみだと気づいた。しかし、火神が結婚するという今になって気づいたところでもうどうする術もなかったし、どうしようとも思わなかった。 (五) 火神の結婚と自分自身の気持ちを知ってから、落ち着くまでに幾分かの時間が必要な気がしたので、これを機に氷室は1カ月のバケーションをもらうことにした。その間にひさしぶりに日本にも行って、懐かしい仲間とも顔を合わせた。日本は今や火神と会うこともない、安全な地だった。ただ、帰国に合わせてわざわざ集まってくれた陽泉のメンバーからは、NBAで活躍する火神の話も出た。そんなときも氷室はポーカーフェイスを保ち、軋轢や葛藤などまるで無いように話した。 旅行の気分転換が功を奏したのか、帰ってきたときには陰鬱に思い悩むことも少なくなった。また、仕事も忙しく、氷室にも他に恋人ができたこともあったので、今度は火神に子供が生まれるとアレックスから聞いた時はそれほど取り乱すことはなかった。 ―――タイガは選手としても成功し、家族も持ち、正しい道を歩んでいる。俺は俺でそれを邪魔することなく、別方面からバスケに貢献して、弟分のことも陰から支えてやれている。それで何の不満があるか。 自分にそう言い聞かせ、氷室は火神のチームへの支援も相変わらず続けていた。 また、火神に見つかりたくないこともあり、以前からスタジアムには足を運ばないことにしていたが、火神の結婚後は気が抜けたのか、試合を見に行ってみようという気になった。チーム関係者にそのことを何気なく話したらこぞって最前列や関係者席を用意してくれようとしたが、氷室はそれを丁重に断ると自分でチケットを買い、2階席の一番後ろの席に座って観戦した。 遠い席から見る選手はひどく小さかったが、それでも映像でも写真でもない火神の姿を十年以上ぶりに見たときは、胸がしめつけられた。 一度行って味をしめてからは何度も足を運ぶようになったが、そのたびに毎回最後列の席を選ぶようにした。試合を見るにはその席でも十分だし、周囲のファンの歓声に耳を傾けるだけでも楽しかった。観客を沸かせる火神の姿は誇らしく、そのために自分が陰でできることをしてきたというのも、氷室の自尊心を満足させた。 (六) また数年が経ったが、相変わらず氷室はなんとなく独身で、忙しい仕事の片手間に火神のチームの運営に口を出し、信託会社が膨らました私財の大部分を火神のチームに費やしていた。 そして氷室が36歳になったときに、火神が離婚に向けて弁護士を探しているという話をチーム関係者から聞いた。 結婚すると聞いたときは動揺したものの、だからといって火神の離婚を望んでいたわけではなかった。いくら日本より離婚率が高い国だといっても、火神は生来の情の深さからきっと一人の女性を大切にして生涯深く愛し抜くタイプだと思っていたので、こんな結末になろうとは思いもしなかった。 ただ、そのイメージも氷室が勝手に作りだした幻想だったということだ。火神だってもう純粋でまっすぐな高校生ではない。愛し合って将来を誓い合っておきながら、数年でお互いにうんざりして、わめきちらして、決別の道を選ぶような経験をしたということだ。そういう火神の姿は、氷室にはあまり想像がつかなかった。 氷室は懇意にしている弁護士に「費用は負担するから離婚案件が得意な弁護士を火神選手につけてくれないか」と相談し、表向きには、火神は格安でいい弁護士が手配できたということになった。火神は妻を不貞の線で、妻は火神を家庭を顧みなかったという線で責めているらしく、一人息子の親権をめぐって裁判に持ち込むらしい。ただ、向こうの不貞の証拠があり、火神の社会的地位と経済面からしても間違いなく勝てるだろうと弁護士は報告してきた。 それからまもなく冬のトレード期間に入ると、待ち構えていたかのように、火神に日本のチームへの移籍話が来た。これまでは火神のチーム愛が強く本人が移籍を希望することはまずなかったし、チームも火神を重宝しており、運営側には氷室がバックにいたので、移籍の話が来てもチーム側から放出するなんて話はなかった。 しかし火神も35になり、さすがに体力の落ちが目に見えてきて、引退も考え始めるころだ。それでも日本に帰れば、まだトッププレイヤーとしてあと何年かやっていけるし、火神のプレイを見たい人も日本には山ほどいる。ちょうど離婚調停中だし、親権を取ったら幼い息子を連れて二人で日本に渡り、新しい生活を始める。それはいかにもありそうな話だった。 さらにエージェントから日本のチームに赤司という人間が絡んでおり、やたら強引に移籍を進めようとしているという話を聞いたとき、氷室は離婚の話を聞いたときよりはるかに動揺した。 ずいぶん長いこと聞いていなかったが、忘れられない名前だった。あの男が絡んでいるのだったら、他のチームと違って、火神自身に直接アプローチして、説得してくるかもしれない。たとえば火神の昔の相棒を使って。 氷室はアメリカでこれまで何年もかけて人脈や実績を築き上げてきたのに、火神が日本に帰ったらすべてが終わりだ、と思った。日本企業に手を伸ばすことはできるかもしれないが、赤司が関わるチームに抱えられたら、今のように匿名のまま陰から駒を動かすことは不可能だ。 ひとまず赤司が提示した額を上回るように、チームに残った場合の年棒を火神に提示するよう関係者を仕向けたものの、赤司から提示された移籍金は膨大であり、チームも正直なところこの機に火神を放出してもいいという方向に傾いていた。 それでも最終的な決定権は火神にある状態だったが、肝心の火神からの返事は「考えたいから3日くれ」というものだった、とチーム関係者から連絡が来た。これまでどんな移籍話が来ても迷わなかった火神がそう言ったことに、氷室はついに死刑宣告を受けたような気分になった。 その報をオフィスで聞いたあと、しばらく全く別の仕事に取り掛かろうとしたり、一息ついて気分を変えようとしたが、どうにも集中できず、結局早めに帰ることにした。同僚が「タツヤ今日は早いね」と声をかけてくるのを軽く受け流して、オフィスビルを出た。 冬のニューヨークは凍てつくような寒さだったが、頭の中が火神の移籍や今後のことでいっぱいで、まっすぐ家に帰らずにすこし歩いて頭を冷やしたいと思い、氷室は家とは反対方向の道を歩き始めた。 ホリデーシーズンが目前で、街は華やかなプレゼントを飾るショーウィンドーや色とりどりのネオンサインにあふれている。その中をひたすら黙々と歩きながら、今まで何度も離ればなれになって、もう何年も直接会ってすらいないのに、それでもまだ懲りずにこの手のうちから離れていくのか、と氷室は火神について思いめぐらせた。 火神が日本を去っても、火神の首元にはずっと指輪が光っていた。結婚しても、チームを通して手元に置けているような気がしていた。でも今離れてしまったら、今度こそ氷室の元には何も残らない。嫉妬してやまなかった夢。手をかけてきた愛情。失うことも諦めることももう慣れてはきているが、引き裂かれる痛みはいつも変わらなかった。 速足で歩く氷室の側を、手をつないで歩く親子や、はしゃいで写真を撮る観光客が通り過ぎて行く。道行く人々の幸せそうな温かい笑顔を横目で見ながら、氷室は急に、自分がこの光に満ちた世界とは隔絶された別の世界に住む人間のような気がした。 ―――今だって身を切るような寒さだけれど、これでもまだ足りない。それに、この街は人が多すぎる。楽しさや華やかさなんか何もない、見渡す限りに誰もいない暗く凍りついた土地に行って、叫んで、わめいて、この何年も前から喉の奥にひっかかったままの言葉をすべてきれいに吐き出してしまいたい。それで、何もかも一から新しく始めたい。別の仕事をしてもいいし、しばらくフラフラしてもいいし、日本でもアメリカでもない全然知らない土地に行くのもいい。俺だってそろそろ自分で家庭を持つことを考えたっていい。そうだ、そうしよう――― 気づくと、いつの間にかずいぶん家から離れたところまで来てしまっていた。タクシーでも使って帰るかと路上をのぞきこんだら、ちょうど一台来て、氷室の前で止まった。ドアを開けて乗り込もうとしたら、不意に腕を後ろから強い力で引っ張られた。 「タツヤ!」 振り向くと、なぜかそこには火神がいた。もう長いことこんな近くで見たことはないけど、確かにそれは火神で、氷室は我が目を疑った。火神の拠点はずっとカリフォルニアで、試合でもない限り、東海岸には用がないはずだ。ましてや今は離婚調停やら移籍話やらで、こんなところに遊びに来てる場合じゃない。 短気そうなタクシーの運転手が「乗るのか?乗らないのか?」と声をかけてきたが、放心状態の氷室の代わりに火神が「わりい、乗らない」と答えてドアを閉めると、すぐに乱暴に走り去って行った。 「・・・驚いたな、タイガ」 「ひさしぶり、タツヤ」 「どうして・・・こんなとこにいるんだ?」 「偶然って言いてえけど・・・タツヤに会いたくて、オフィスの前で待ってた。けど、ひさしぶりすぎて、なんて声掛けていいのかわかんなくって」 しばらくあとつけちまった、とうつむいて小声で言う火神は、とてもNBAでレギュラーで活躍して現在離婚調停中の35歳には見えなかった。ちなみに氷室はもうオフィスを出てから鬱々と考え込みながら30分以上は歩き続けていたので、この男に30分以上ももじもじと後をつけられていたことになる。 「よく場所がわかったな」 「タツヤが働いてるとこ、赤司が教えてくれて」 「ああ・・・彼か」 やられた、と思った。普通なら喜んで手放しそうな移籍金なのに、引退間際の選手を引き留めるために破格の年棒を積んだのは確かに異様なことだ。疑われて詳しく調べ上げられても仕方ない。 「赤司が・・・タツヤが何年か前から俺のチームに関係してるって言ってきて」 一番知られたくないことまで知られていたことに、氷室は少なからずショックを受けた。違う、たまたま会社が取引していただけで俺は関係ない、そういう言い逃れがいくつか頭には浮かんだが、唇が薄く開いただけで、声にすることができなかった。沈黙を肯定と見たのか、火神はため息をついた。 「タツヤ、俺がNBAに入っても連絡くれなかったし、結婚式にも来てくんなかったし、子供生まれたって会いに来てくれなかったのに」 「来てくれなかったって・・・先に逃げたのはお前だろ」 「それは・・・だって、タツヤが無理だっていうから」 「無理?」 「あのときすげえ怒ったじゃねえか。俺とは無理だって。いい加減にしろ、頭を冷やせって・・・俺ずっとそのこと考えて・・・」 氷室自身は自分が何を言ったかほとんど忘れていたが、火神はまるでたった今言われたばかりのように氷室のそのときの言葉を繰り返して、苦しそうに眼を伏せた。氷室が長いこと苦しんでいたのとはまた別に、火神にも氷室がつけた傷が今も生々しく残っていることに、震えが走った。火神の首元は今はマフラーに隠れて見えないが、あのリングが痛々しい頸木のように火神を締めあげている様子が浮かんだ。 「それなのに、赤司が、タツヤが何年も前から俺のチームに関わってるとか、金出してるとか、俺を手元に置こうとしてるとか言うし・・・わけわかんねーよ・・・なんなんだよタツヤ、ずっとなにしてたんだよ。アンタ、なにがしたいんだよ。教えてくれよ」 ずっと、何がしたかったのか。巧妙に他人の懐に入りこんで、私財を投げ打って、人や物事を思い通りに動かしては、嫉妬と苦痛をまぎらわす術を覚えて。ずっと何がしたかったって、そんなの決まっている。 ―――愛したかったんだ、ずっと。離れていたって、お前が何も知らなくたって、俺は俺なりの方法で、愛したかったんだ、タイガ、お前を。 氷室はその言葉も胸の内に飲みこんで、ただ黙って火神を見つめ返した。 (七) 路傍に立ち止まったまま、大の男が二人で真剣に話し合っているのは意外と目立つ。しかも火神は現役のNBA選手なのに、今にも泣き出しそうな顔である。 かといって家に連れていくのもためらわれたし、火神は今日の深夜便でまたロスに戻らなければいけないというので、結局そのまま比較的人気のない裏通りに入って、離れ難さが解消されるまで、またあてもなく歩きながら話し続けることにした。 「・・・タツヤって、もう、結婚したのか」 「俺はしてないよ」 「え、マジかよ」 「なんで嘘つく必要があるんだ」 「でもタツヤさ、俺の試合見に来たとき女と一緒だったじゃん」 「・・・いつの話だ?」 「今年の1月の××××戦。来てただろ?」 確かに見に行っていた。試合を観に行っていたのがばれて氷室は気恥しさを感じると同時に、どうしてあの数千数万の観客の中で最後列にいる10年以上会っていない人間を見つけられるのか、火神の執念を侮っていたというのか、妙に納得がいかなかった。 「・・・俺、ひとりだったぞ」 「うそだろ。俺見たんだよ、そんで、見つけて、あれぜってえタツヤだって思ったのに、髪長い女が一緒に座っててずっとタツヤと話してっからさ」 「あの席なのによくそこまで見えたな・・・でもそれは隣の席だっただけだ」 言われてみればその試合では隣に座った女性が火神のチームの大ファンだというので意気投合していろいろと話した記憶があるが、その場限りだったし、スタジアムでなにかそこまで疑われるようなことをしていたわけでもない。 「ただ隣の席ってだけであんなに親しくするなんておかしいだろ・・・相変わらずだなタツヤ」 「なにが言いたいんだよ」 「・・・でも、だからてっきりタツヤはもう結婚してて、アレックスは俺に気を使って言わないのかと思ってた。でもそっか。違うのか。」 火神はハア、と白い息を吐いて、横を歩く氷室の方を向き直った。 「・・・タツヤ、俺、いま離婚の裁判中でさ。もうすぐ片付きそうだけど」 「へえ、意外だな」 ―――知ってる。弁護士だって俺が手配した。 「そんで、俺ロスに家もっててさ」 ―――それも知ってる。海の近くの小高い丘で、眺めが良くて、サーフィンにもすぐ行ける、白くて開放的な家。タイガの好きそうな物件だから紹介させたんだ。 「だから、もし休みとれるなら今度遊びに来いよ。海がすぐそこで、いいとこだぜ。さすがに今の季節は泳げはしねえけど、寒さはここより全然マシだし。海が見えるゲストルームもあるから、気に入ったら好きなだけいていいし・・・」 ―――海が見える部屋は夫婦の寝室用にいいと思ったんだけど、なんでゲストルームなんかに使ってるんだよ。そんなんだから嫁に逃げられるんだろう、タイガ。 「あと、息子にも会ってほしい。今4歳なんだ。俺に似てるし、絶対あんたに懐くと思う」 ――ああ、そっくりなんだってな。アレックスが会うたびにキスしまくってるって聞いたよ。今から女性が苦手になるんじゃないかと気が気じゃないよね。 火神は黙ったままの氷室に対し、他にも、近くにいい店があるとか、バスケができるとこもあるだとか、熱心に説得してきた。氷室はふと、火神がまだ高校生だったとき、スポーツ推薦の資料を手に進路の相談をしてきたことを思い出した。そして今「移籍の返事は待ってくれ」とチームに言った直後に、ニューヨークまで日帰りで飛んで来て、これである。まさかまた俺の返事を日本に渡るか今のチームに残るかの決め手にするんじゃないよな、と考えついて、いやさすがにそれはないだろう何年会ってないと思ってるんだ自意識過剰すぎる!と思いなおしたが、横で嬉しそうに話しかけてくる火神を見るとその疑惑は拭いきれなかった。 昔はたしかに、火神の才能と未来のために突き放した。しかしあの後NBAで活躍して結婚して離婚までした火神を目の前にすると、今どうしたらいいのかわからなかった。エージェントだって弁護士だって医者だって不動産屋だって、火神が必要なら何でも手配できるのに、こんなに近くでキラキラした目で火神に直接見つめられると、正解が見出せない。 「・・・なんか、俺ばっかり浮かれてわりぃ。タツヤすげえ出世してるって聞いたし、遊びに来いって言っても忙しいよな・・・」 話に対していまいち反応の鈍い氷室に対し、火神がいかにも気落ちした残念そうな声で言うと、さっき決めたばかりの、どこか誰もいない凍てついた土地に行って何もかも一から始めるという決意が脆く崩れ去って行くのを感じた。 「いや、そうだな・・・しばらく休みとってなかったから、休みもらって遊びに行くのもいいな」 「タツヤ!そうしろよ、いつでもいいぜ!ほんとに」 氷室の返事に火神は大喜びして、肩に手を回されたかと思ったらそのままぎゅっと苦しいくらいにきつく抱きしめられた。 ―――いっそ仕事を辞めて、タイガの家に図々しく居座って、タイガのジュニアに取り入って、2人目のパパの座に上り詰める、か。 そんな将来の選択肢はこれまで考えたことがなかったな、と氷室は思った。 Dec.21.2013 |