うまくいかない恋と
ポーカーフェイスの兄貴分を本気にさせる方法
HOW TO DEVELOP THE RELATION WITH YOUR POKER-FACE BRO





「そういや、タツヤが今週末、東京に用事があるって言って・・・うちに泊まりに来るんだ」

 部活帰りのマジバで、火神が12個目のチーズバーガーに手を伸ばしながらそう言うと、向かいに座っている黒子はバニラシェイクを飲みながら全く感情のこもっていない声で返事をした。

「そうですか。一大イベントですね」

 兄貴分との再会後に、火神の中で育まれてきた新しい感情は、いつの間にやら、この人間観察を趣味とした相棒に知られていた。火神が呆けたように授業中に空を眺め、胸元のリングをいじっては溜息をつき、携帯を落ちつきなくチェックし、カントクの目を盗んだ部員内の猥談では顔を赤らめてまたリングをいじり、紫原の話を聞いては暗い表情をするのを毎日一番近くで眺めてきた相棒としては「君はわかりやすすぎです」と言うしかなかったが、火神だって気づいたばかりの新しい感情をもてあましているところだったので、指摘されたときはずいぶん動揺した。

 兄貴分への思慕がこじれて恋愛感情に進化したといっても、そもそも仲直りだってしたばかりで、普段は会えない距離である。時とともにぼんやりと胸の内に慕情が積もっていくだけで、特に何かのアプローチをしているわけでもないから、実際の関係には何も変化は起こりそうになかった。しかし氷室は確実に今頃秋田で相変わらずモテているだろうし、自分といえばどうにか元の関係を取り戻せたところなので、思慕と同じくらいに不安も募ってくるのであった。

 そんな矢先に出た、氷室の上京話である。なんでもどこかの大学を見に来るとかで、土曜朝に東京に来るから、夕方の火神の部活が終わった後に会えるし、寮には日曜の夜までに戻ればいいからそれまで空いていると言われた。続けて近場のホテルがどうとか言いはじめた氷室の話を火神が慌てて遮って、どうにか家に泊まりに来てくれることにもなった。丸一日、氷室と二人きりである。それだけでもう今なら体育館の天井まで跳べるんじゃないかというくらい嬉しいが、同時に、この機に何か進展につながることをするべきじゃないのか、という焦りもじわじわと浸食してきたのであった。

 火神だって黒子に話したところで何かいいアドバイスが得られるとは思っていなかったが、なんだかんだいって氷室との仲直りを後押ししてくれた立役者であるし、好意がばれているということもあって、こうして部活後のマジバで二人きりの時に、つい氷室が泊まりに来ることを打ち明けてしまった次第であった。

 黒子の「そうですか」というどうでもよさそうな返事を聞いて「ああやっぱ興味なさそーだな」と、打ち明けたことを少し後悔し始めた火神であったが、黒子は表情を変えないまま、

「そういえば、ちょうど、そんなきみにぴったりの本を借りてきたんです」

と言って、バッグの中をごそごそとあさりだした。本?と火神は首をかしげる。本と言えば黒子はいつも何かしらの本を手にしているが、火神は黒子が何を読んでいるのかにも興味はないし、入学してから一年経っても図書館で本を借りたことすらなかった。

 そして黒子がバッグから取り出してきたのは、あろうことか、いかにも女子が好みそうな濃いピンク色のハートマークと星が飛び散った表紙の本で、「誠凛高校図書館 蔵書」というシールが貼ってあり、タイトルはキラキラした銀色の箔押しで
「うまくいかない恋を叶える!とっておきの恋愛テクニック☆」
と書いてあった。

「はあああああ??!!な、なんだよこれ・・・」
「火神君にぴったりじゃないですか?昼休みに図書館でちょうど返却されていたのを見つけて、これは、と思って借りてきたんです」
「借りたって・・・図書館って確か、借りるとき名前とか書くんだろ」
「そうです。だから図書委員権限で火神君の名前で借りてきました」
「え」
「おめでとうございます、君の図書カードの記念すべき一冊目はこの本です」

 記録に残りましたね、と言われ、ふざけんなよ!と怒鳴り返したかったが、一応ここが混みあったマジバ店内であることと、氷室との関係については藁にもすがりたい気持ちであったのは事実なので、どうにかグッと堪えた。

 そして火神は渡された本をぱらぱらとめくってみたが、ふだんバスケ雑誌と最低限の教科書くらいしか読まないので、あまり内容が頭に入ってきそうになかった。しかもイラストや出てくる単語がいかにも女子!という感じで、生理的にも受け付けない。

「これ、女用じゃねーか。もっと、弟扱いしてくるポーカーフェイスの兄貴をモノにする方法、みたいなオレに直結したやつのねーのかよ」
「・・・火神君、今自分が何を言ってるかわかってますか。そんな危険な本ありませんよ。むしろ自分で書いてください。それに、イラストが多いからこれなら君でもわかりやすいかと思ったんですよ」

 一応いろいろ考えてくれているみたいなので感謝していいのか、やっぱりからかわれているのかよくわからなくなってきたが、相棒が「まあ、週末は頑張ってください」と言うので、火神は「・・・おう、サンキュ」と感謝の言葉を口にした。


 黒子から借りた本を、火神はその晩寝る前に再び手にとってはみたが、やはり活字を目で追っているとどうも眠くなってしまってだめだった。しかし本文よりも読みやすいイラストで描かれたお悩み相談コーナーを見ていると「彼が何を考えてるのかわからない!」「恋人候補として見てもらえないんです・・・」「遠距離だから心配!」などと意外に自分自身に共通する悩みが書かれていて、「おお、オレも同じ悩みだぜ・・・!」といちいち親身に思ったりなんかもして、どうにか週末までに少しは読み進めることができたのだった。

 それから数日。部屋を掃除したり、ピクルスを漬けこんだりしているうちに週末は容赦なく訪れた。
 夕方、氷室が用事を終えて火神も部活が終わった後に、火神の家の近くの駅で待ち合わせることになっていた。会う前はごちゃごちゃと悩んでいたが、先に着いていたらしく駅前で人待ち顔で立っている氷室の姿を目にすると、単純な火神の心は一気に喜びで満たされた。ついボールを追うような全速力で駆け出してしまい、側を歩いていた女子高生がその勢いに驚いて小さく悲鳴を上げた。
「タツヤ!」
 呼ぶと彼が振り向く。当たり前のことではあるが、別離の期間のことを思えば尊い瞬間であった。
「タイガ」
 氷室は相好を崩して、火神に向かってすこしだけ手を広げる。これは―――いいのか?いいってことか??意識する前はフツーにやってたし、いいってことだよな???と火神は頭の中をクエスチョンマークでいっぱいにしながらも、ええい、と思いきってその腕の中に飛び込み、ガシッと強く抱擁を交わした。―――兄弟らしく。
 
 今日の氷室は機嫌が良く、火神に会えたことを本当に喜んでいるのがわかったので、火神もさらに幸せな気持ちになった。家に着いてからも、部屋が綺麗に維持されていることを氷室が褒めてくれて、それだけでもう満足しそうになったが、自分の部屋にエナメルバッグを置きにきたときに黒子から借りた本が視界の端に入って「あ、そうだ」と思い出した。さっきのはあくまで兄弟の抱擁だ。それだけじゃなくて何か進展につながることをする、それが今回の氷室訪問においての火神の目標であったのだ。

 火神は急いで夕飯の支度をしながら、なんかねーかな、ともう一度本の内容を一生懸命思い出そうとしたが、これだ!というほどのアイデアは思い浮かばなかった。
 本には「グッと接近☆パーソナルスペースに入り込んで!」だとか「ボディタッチを効果的に!」だとか「いつもと違う!?ギャップで迫る!」だとかいちいち高いテンションでいろいろなアドバイスが書いてはあったのだが、読んでいても、どれもあまり氷室に実際に効果がありそうだとは思えなかったのだ。駅で自然にハグだってしたんだからボディタッチなんて今さらだし、ギャップなんて火神には器用に演じられそうにもない。
 考え込みながらも、ふと顔を上げるとリビングで氷室がひとりでソファに座ってテレビを適当にザッピングしている後ろ姿が見えて(何か手伝うよと言われたが火神がやんわりと断った結果である)、それだけでまた「この感じって二人で暮らしてるっぽいよな・・・」と幸せな気分になってしまい、また思考が妨げられてしまうのであった。


 夕飯を食べて、NBAのDVDを見ながらなんだかんだと話し、2人でアレックスにスカイプをかけたりしているうちに夜は更けた。氷室が先に風呂に入っているあいだに火神が寝床を用意しようと立ち上がると、「そういえばタツヤはどこで寝るつもりなんだろう」という重大な点に今さらながら思い至った。火神の住むマンションは広いので、寝る場所にも選択肢ができてしまう。一応客用の布団は干しておいたのだが、氷室に聞いたら絶対まず「リビングのソファでいいよ」とか言い出しそうだし、その次点でも想像がつくのが「リビングに布団敷いてくれればいいよ」、もしくは「おじさんのベッドを使わせてもらおうかな」であった。
 火神にも、恋する者の立場として「一緒に寝たい」という欲求はもちろんあったが、そんなことはとても言い出せそうになかった。もっと自然に、せめて親しい関係として同じ部屋で寝たいと思うが、それに対して氷室にあっけなく「いや、リビングでいいよ」とか断られたら、それ以上は兄貴分を相手にしてうまく言葉で勝てる気もしない。

 せっかく今まで氷室も機嫌よく過ごしているし、別にこんなことで変な主張をしてわざわざ気まずくなる必要もないか―――と火神は一旦は譲歩しようとしたが、ふと、無表情な相棒の「頑張ってください」という言葉と、そういえばあの本に今みたいなケースが載ってたな、ということを思い出したのであった。



 自分の部屋で例の本を開いてみると、確かに数ページにわたって「断られない誘い方!」というのがいくつか書いてあった。載っていた例はデートの誘い方だったので、よく読み返して、火神なりに頭をフル回転させて応用方法を考えた。とりあえず参考にしたのは、「Yesと答えやすい会話を続けて、最後に一番大事なお願いを自然に切り出すと断られにくいよ☆」というものである。

 考えついた言葉を忘れないように何度も唱えているうちに、氷室が風呂からあがってきてしまったので、火神は慌ててリビングに戻った。しっとりと濡れた黒髪にざわつく心を押さえ、深呼吸をして、ソファに座って雑誌を手にした氷室に、あくまでも何気ない風に後ろから声をかけた。

「・・・タツヤ、アンタの荷物こっちに動かしといたから」
「ああ、わかった」
「あとコートもこっちにかけといたから」
「うん」
「それから、冷蔵庫の飲み物とか・・・勝手に飲んでいいからな」
「ああ、ありがとう」
「あ、あと、寝るのオレの部屋でもいい?」
「いいよ」

 よっしゃあ!!!!と氷室が背を向けているのをいいことに火神は思い切りガッツポーズをした。氷室は雑誌を見ていることもあって、何も深く考えずに答えているようである。渾身の作戦がうまくいったことに、この調子でいろいろ自然と距離を縮められるんじゃないだろうか、と希望がわいてきた。あの本役に立つじゃねえか、黒子サンキュ!と火神は心の中で相棒に礼を言った。

 火神は嬉々として自分の部屋に布団を敷き、「タツヤがベッドに寝ろよ、オレは床でいいから」と氷室に言ってはみたが、さすがにその返事はNoだった。
 それから火神が急いで風呂に入り、あがってくると、すでにリビングに氷室の姿はなかった。もう寝てんのかな、先に寝て待ってるってなんかいいよな、と胸を高鳴らせながら火神が自室のドアを開けると、確かに氷室はそこにいたが―――なぜかイスラム教の礼拝のような体勢で布団の上に座って顔を床に突っ伏していた。







「・・・え?タツヤ?なにしてんだ?」

 まさか具合でも悪いのか、と火神が慌ててそばにしゃがみこむと、途端に氷室がバッと顔をあげたが、その目尻のちょうどほくろのところに涙がきらりと光っていて、不意打ちでドキリとさせられた、のだが、

「はぁ、いや、これが枕元にあったから・・・ごめん、タイガが本なんて、珍しいなと思って、見ちゃって」

 え?と思って氷室の手元を見ると、そこには例のピンクの本があった。―――やっちまった。火神は一瞬、目の前が真っ暗になったように感じた。さっき慌てたせいで、そのへんに出しっぱなしにしてしまったのだ。そして、どうやら氷室は痛いわけでも苦しいわけでもなんでもなく、単に火神の部屋でそんな不似合いな本を見つけたことがおかしくて、腹を抱えて笑いすぎて、こらえきれなくてついに涙まで出てきたらしかった。

「ちがっ!!これはオレじゃなくて!黒子が無理やり渡してきて!」
「でも、こんな、しおりまで挟んでるじゃないか」
「それはっ・・・」

 読んでいるとき、オレと同じ悩みだ!と思ったところ数か所に自分でノートの切れ端を挟んでいたのだった。火神が「そうじゃなくて」「違う」などとうまく答えられないでいると、氷室はまた堪えきれなくなったというように、背を折り曲げてクックッと笑い始めた。

 火神は下手くそな言い逃れを重ねようとしたが、氷室にまじめに聞いてくれる様子がなさそうなので諦めて、ふてくされたようにベッドに座り、氷室が落ち着くのを待った。例の本が見つかってしまった恥ずかしさはもちろん穴があったら入りたいほどだが、それと同時に、氷室の態度にも苛立ちを覚えていた。いくらなんでも笑いすぎなんじゃないだろうか、と思うのだ。―――確かにこの本は男のオレが持ってるにはおかしいかもしれないけど、オレだって真剣な気持ちなのかもしれないのに、訳も聞かずにこんなに笑うなんて、そんなに、オレに好きなやつがいるのがそんなにおかしいのか、オレがタツヤのこと好きだなんて思いもしないのか、と。

 火神はわざと唇をとがらせてあからさまに拗ねた様子をして、氷室がすぐに自分の不機嫌に気づいて謝ってくるのを待っていたが、予想に反して氷室はいつまでも床に突っ伏している。このまま放っておいていいものか、氷室の笑いがだんだん狂気めいたものに感じられて怖くなってきたので、仕方なく自分から声をかけることにした。

「お、おい、タツヤ、大丈夫かよ・・・そんなに笑わなくたっていいだろ」
「ああ、ごめん」 氷室は弾かれたように顔を上げると、息を整え、手の甲で涙に濡れた目元を擦った。「はあ・・・そうだよな、もう16歳だもんな・・・タイガにも好きな子の1人や2人いるよな」
「2人はいねえよ!」
「じゃあ1人はいるんだろ」
「うっ・・・」

 氷室は落ち着きを取り戻すと、布団の上にあぐらをかいて座り直し、抱えていた例の本をあらためてパラパラとめくりはじめた。

「で、『うまくいかない恋』の相手は誰なんだ?同じクラスの子か?」
「・・・秘密」
「誠凛の子ならオレが知ってるわけじゃないし、いいだろ」
「絶対いわねー」
「じゃあ、帰ったらアツシに頼んで黒子くんに聞いてもらおうかな」
「そーいうのマジでやめろって!」
「なんだ、タイガの部屋で一緒に寝るから、そういう相談でもしたいのかと思ったのに」
「・・・ちげーよ」
「で、この本、なにか試してみたのか?」
「・・・」
「タイガはこういう本に変に頼らなくても、ありのままのタイガでオレはいいと思うけどな」

 知らないというのは残酷なことだ。ありのままだとアンタとの関係がなんも変わんないから、こんな本に頼ろうとしたんじゃねーか!と本人には言えず、火神は「今のオレじゃ、ダメなんだよ」とだけ小声でつぶやいた。

 氷室はその火神の言葉には、意外そうにすこし首をかしげただけだった。そして氷室が布団の上で無言でページをめくり続け、火神はベッドに座って氷室が何か他のことを言いだすのを待ち構えたままの、落ちつかない沈黙がしばらく続いた。なに熱心に読んでんだよ、本よりオレをかまってほしいのに、と本を借りてきたことを火神が別の意味で後悔し始めた頃、氷室がやっと本をパタンと閉じた。その音はやたら大きく響き、途端に部屋に今までとは違う妙な緊張が走ったように感じた。

「タイガはさ・・・その相手の子とは今どんな感じなんだ?」

 氷室はそう尋ねると、立ち上がり、いきなりベッドの火神のすぐ隣に座ってきた。その話はいい加減終わっただろうと思ったところでまた急に蒸し返されて、火神の頭はまたもや動揺でうまく働かなくなってくる。

 どうせうまく嘘をつきとおすこともできないのだから、恋焦がれる相手が氷室だと正直に告げるべきなのかと一瞬迷ったが、今あんなにも笑われたばかりである。たとえ勢いのままに告げたところで格好もつかないし、驚かせて氷室を悩ませるだけだとしか思えなかった。最悪キレて部屋から出て行かれて、明日一緒に過ごす予定もなくなったりしたらと思うと、それだけは本当に避けたい。(特に、明日の朝は二人だけでストバスに行く予定だった。)

「どうって・・・別に、どうだっていいだろ」

 氷室と目を合わせられなくて、視線を下に向けると、今度は氷室が身体を寄せて、顔を覗き込むようにしてきた。

「教えてくれないのか?」
「いわねーよ」
「なんだ、タイガの意地っ張り」

 彼にしては妙に子供っぽい言い回しだと思ったら、なぜか次に氷室は急に火神の腿の上に手をそっと置いてきた。いきなりの接触に火神が驚いて氷室のほうを向くと、氷室はにっこりと微笑み、囁くようなかすれた声で、

「オマエの練習、つきあってやろうか」

と言って、ますます身を寄せてきた。自然な笑い方でも、取り繕ったようなフェイク・スマイルでもない。火神にとっては初めて見る表情だった。薄い唇がすこし開いて、白い歯と赤い舌先がその奥にちらりと見える。蠱惑的。妖艶。婀娜。氷室の様子はそういう言葉が的確なのだろうが、どれも火神のボキャブラリーには無かったので、タツヤがおかしい、タツヤがヘンになった、いつものタツヤじゃない、という叫びだけが頭の中をぐるぐると回った。
 このペースに飲みこまれてはいけない。状況が把握できないながらも火神の本能がそう察知したので、氷室から顔をそらしてできるだけ何でもない風に「練習ってなんだよ」と軽く返してみたら、今度は腿を思い切りつねられた。

「いてぇ!なにすんだよ」
「なにって・・・オレに言わせるのか?」
「え」
「だから、オマエの本番に向けた練習だって。したことないんだろ?」

 本番?したことないんだろ?―――バスケ以外に該当する場面が思いつかないわけでもないが、氷室が自分に言いそうな言葉とはとても結び付かなかった。だとすれば、単に日本語の意味を取り違えてる可能性もある。氷室の距離はやたら近いし、本能は謎の危険を知らせるし、日本語の意味はわからないしで、火神はますますパニック状態に陥ってきた。

「え、なんだよ・・・まじでわかんねえんだけど」
「にぶいなタイガは。そんなこといってると相手の子に嫌われるぞ」
「はぁ?なんでそんな」
「ほら、タイガ、オレたちが座ってるのはなに?」
「え・・・ベッド?」
「そう。正解、bed。よくわかったな、good boy」

 氷室はまたにっこり笑って、今度は火神の腿の内側をするりと撫でさすった。腹の底から血がぐっと駆けあがってくるような感覚に襲われる。さっきまでは本番だの言われてもまさかと思っていたが、さすがにこれはまずい、やばい。

「え、ちょっと、タツヤ待てって!どうしたんだよ!」

 あわてて氷室の身体を引きはがそうとしたが、こんな時に限って氷室はしっかり男の力で抵抗し、火神が押しやってもびくともしなかった。

「なんだ、もっとちゃんと言わなきゃだめなのか?それともタイガは―――そういうの言わせるのが好きなのか?」

 氷室の妖しげな微笑みと、甘くかすれた声、腿の内側をゆっくりと撫でさすってくる手に、頭の中が真っ白になる。体の中で行き場のない熱がグルグルと回り、火神は胸がふさがれたように息が苦しくなってきた。

―――練習ってどうしろって言うんだ、まさかマジでそーいう意味じゃねえだろな、なんでだよ、わけわかんねえよ、でもオレはタツヤのこと好きだし――――ああもういっそタツヤがいいっていうなら練習ってことで―――と火神がもう雰囲気に流されて氷室の手を握り返してしまおうとした瞬間、突然ふと今日の練習でカントクに言われたことを思い出した。調子に乗ってジャンピングハイヤーしていたら着地に失敗しそうになって叱られたのだ、「練習で怪我して、本番で使えなくなるなんてバカなマネしないでよね!」と。カントクは恐ろしいが、頭がいいし、言うことはだいたい正しい。「練習で怪我して、本番で使えなくなるなんてバカなマネ」。その言葉を思い出すと、苦しみの中で急にぱっと明るい道が開いたような気がした。そうだ。練習は違う。オレにとってタツヤは練習なんかじゃなくて、インターハイ決勝みたいなもんなんだから、練習試合みたいな気持ちでやっちまうのはおかしいだろ、そうだよな、カントク―――

「だって、タツヤで練習なんてそんなんおかしいだろ?!」

 もはや悲鳴に近い声で火神がそう叫ぶと、氷室の力が緩んだ。

「おかしいか?」
「だって・・・タツヤじゃ練習になんねえって」
「―――そうか―――おかしいよな。オレなんかじゃ練習相手にもならないよな」
「は? え? ていうか、タツヤが」
「冗談だよ」
 
 氷室は急に冷めた声でそう言うと、火神から手を離し、さっとベッドから立ち上がった。

「・・・はあ?!」
「Just kidding, タイガがあんまりムキになるから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
「なんだよそれ!・・・まじでびびった・・・やめろよ」
「ごめんごめん」
「ほんと趣味わりーよ・・・まさかタツヤ、陽泉でも今みたいなことしてんじゃねえよな」

 氷室にはそれには答えず、あははタイガ耳まで真っ赤だよ、びっくりしただろ、と貼り付いたような笑顔で笑った。火神はうるせーよと火照った頬をガシガシと擦りながらも、確かタツヤのこの顔のときって口には出さねえけど余計なこといろいろ考えてんだよな、と昔のいくつかの出来事を思い返したが、今の氷室がどんな余計なことをいろいろ考えているかまではわからなかったし、察する余裕もなかった。

「ほんとごめんって、からかって。さ、タイガ、もう寝ようか。オレも移動で疲れたしさ。明日は朝からストバス行くんだろ?」
「ああ、うん・・・いいけど、オレちょっと・・・えっと、戸締りとか・・・タツヤ先寝てていーから。おやすみ」
「ん、おやすみ」

 火神は言い訳をしながらぎこちない態度で部屋を出ると、戸締り確認はそっちのけでそのまま一目散にトイレに駆け込み、鍵を閉めて床にしゃがみこんだ。
 いまだに心臓がうるさく鳴っていて、爆発しそうだった。練習だの本番だの言うからカントクのことを思い出して、取り返しがつかなくなる前にどうにか我に返れたが、あれがなかったら氷室の性質が悪い「冗談」を本気にしていたところだった。ものすごく危なかった。

 付き合いたいと思っている以上、火神ももちろん何度も何度も氷室とのそういった行為を想像したことはあった。しかしどちらかといえば衝動的な性欲よりは昔からの愛情が元になっていたし、想像に出てくる氷室も、いつものちょっと兄貴ぶったクールな態度―――そこに火神の勝手な妄想により恥ずかしがりやで快感に弱いというホットなスペックが加わっている―――であり、あんな露骨に媚びて誘うような態度をするところなんて、考えたこともなかった。

―――陽泉でも言ってんのかって聞いたら笑ってごまかされたけど、もし陽泉であんな悪い冗談言って、本気にしちまうバカがいたらどうすんだよ。さっきのオレみたいに。タツヤ喧嘩も強いから変なことされそうになったって大丈夫かもしれねえけど、たまに抜けてて危なっかしいとこあるし、もし相手が4、5人とかだったら、さすがにタツヤだって―――いやでもさっきのあの「変なタツヤ」だったら、ひょっとしたら4、5人くらい喜んで――――

と、そこまで考えて、火神は「何考えてんだオレ!」とトイレの壁にガツンと額を打ち付けた。
 普段の氷室だったらありえないが、さっきの変な氷室だったら、アダルトビデオのワンシーンみたいで想像があまりに容易かった。最悪なことに、誰より気高く美しいはずの兄貴分が、複数の男を優雅に手玉に取って、妖艶な笑みを浮かべて淫蕩の限りを尽くしているところを想像して、どうにかおさまりそうだった下半身にまた熱が一気に集まってきてしまった。「―――そういうのが好きなのか?」とささやいた氷室の甘い声が思い出され、火神はちげえよそんなん全然好きじゃねえよと頭を左右にぶんぶんと振ったが、想像と熱の暴走は止められそうにもなかった。

―――サイテーだ、オレ。タツヤごめん、タツヤは絶対そんなことしねえのに。こんな妄想で汚しちまって。タツヤのことほんとに好きなのに、大事にしたいのに、他のやつになんか絶対取られたくないのに、こんな妄想でコーフンしちまうとか最低だ。一番おかしいのはタツヤじゃなくてオレだ。自分をコントロールできねえ。

 混乱と罪悪感のあまりに涙がこみあげてきたが、泣いてもどうにもならないし、もし氷室が起きていたらいつまでも寝室に戻らないのを怪しまれる。火神はこぼれた涙をTシャツの袖で拭うと、覚悟を決めて、手っ取り早く下着に手を突っ込んだ。ドアや廊下を隔ててはいるものの、数メートルしか離れていないところで眠っている相手を思って一人でするのは罪悪感と興奮が限界値を超えていて、悲しいくらいあっというまに終わった。

 出すものを出すとすっきりして、証拠をそのままトイレに流してしまうと、すこし冷静さを取り戻せた。火神が足音をたてないようにしてそっと自室に戻ると、すでに部屋の照明は暗くなっていた。氷室は横向きに寝ているうえに長い前髪がかかっているので顔は見えないが、ドアを開けても身動きしなかったので眠っているようだった。
「タツヤ・・・?」
 試しに小声で呼んでみたけど返事はない。氷室を踏まないように、布団の端をそっと歩いて火神は自分のベッドに上がった。

 一緒に寝たいと言い出した自分が、今では恨めしい。さっきよりは落ち着いたといっても、あんな妄想をした相手とこの距離で寝るのは拷問だった。ただ、このわずかな距離を実際に同じベッドの上の関係まで近づけるには、まだ果てしなく遠い道のりが必要な気がするのだが。

「決勝がタツヤ、か・・・」

 さっき自分で氷室についてそんなことを考えついたものの、対戦相手が決められた試合と違って、氷室との決勝戦に至るにはそれまで何と戦えばいいのか、何に勝ち抜いていけばいいのか、まったくわからない。火神は眠る氷室の姿をベッドの上からしばらく眺めていたが、深いため息をつくと布団にもぐって横になった。

 起きたら氷室になんて言ったらいいのか、それよりまず興奮で眠れないかもしれない、などと思い悩みながら火神は目を閉じたが、心労のせいか、出すものを出してすっきりしたせいか、意外とすぐに眠ってしまった。


 そして目が覚めると氷室はもう先に起きていた。しかも昨夜のことには特に触れることなく、いつも通りの氷室だったので、火神は腑に落ちない部分は残っていたものの、とりあえずほっとした。氷室の昨日の悪い冗談に対する怒りよりも、そのあとの自分の妄想に対する罪悪感が強かったので、自分から昨日の話題を蒸し返す気もしなかった。

 朝食後にストバスに行くと、久しぶりの氷室との対戦にすっかり邪念を忘れて思い切り打ちこむことができた。そのあとは氷室が買いたいものがあるというので少し買い物に付き合って、夕方には東京駅まで見送りに行った。新幹線の改札を通る氷室の後ろ姿を見送るときは、せつなくてたまらなかった。

 いつも通りの氷室と接している間は火神も普段通りでいられたのだが、誰もいない家に帰るとまた悶々としてきて、今タツヤは何を考えてるんだろうとか、昨夜のは一体なんだったんだろうとか、陽泉のやつには本当に変な冗談言ったりしてないだろうとか、思い悩む羽目になった。それで紫原のことを思い出して、とりあえず黒子に「紫原からオレの好きなやつ聞かれても絶対言うなよ」とメールを送った。数分後に「言いませんけど一体どうしたんですか」と返信が来て、すごく誰かに話を聞いてほしい気分ではあったのだが、もう疲れ切っていたので「明日話す」とだけ返した。


「・・・ていうことが土日にあったんだよ」

 翌日の放課後のマジバにて、氷室の詳しい様子や自分の妄想についてはさすがに説明を省いたものの、火神の話を聞き終わった黒子は外周を走った後みたいにげっそりとしていた。

「最初は他愛ない痴話げんかかと思ったら・・・意外と後半で生々しくなりましたね・・・」
「え、そうか?これでも・・・いや、わりぃ・・・」
「いえ、いいんですけど、本が役に立ったみたいでよかったです」
「役に立ったっていうか、なんつーか」
「でも結果的に、今までとはちょっと違うことになったじゃないですか。弟じゃない扱いされてますし」

 夜の氷室の奇行のせいですっかり頭から吹っ飛んでいたが、「何か進展につながることをする」のが今回の火神の目標のはずであった。確かに弟じゃない扱いはされているが、進展したかと考えると、別に、ただ悪い冗談でからかわれて、翌日バスケして買い物いっただけ、のような気もする。進展とは言い難い。

「タツヤのアレ、マジでなんだったんだろ・・・」
「僕は実際見たわけじゃないからわかりませんけど、そんなに悲観することでもない気がするんですが」
「なんでだよ」
「僕には氷室さんが、その場でこの本を読んで、パーソナルスペースに入って、効果的にボディタッチしながら、いつもと違うキャラで迫ってきただけ、のような気がするんですが」
「・・・は?なんでタツヤがそんなことする必要があるんだ?」
「それは僕の口からは何とも言い難いです」
「オレに張りあってあんなことしたってことか?」
「といいますか―――」
「でもオレ、何やってもあの変なタツヤに勝てる気がしねえよ・・・」
「火神君、勝てねえくらいがちょうどいい、の精神はどこに行ったんですか」
「バスケとは別だろ」
「そこで、そんな弱気で試合中とは見る影もない火神君のために、次はこんなものを用意しました」

 嫌な予感しかしなかったが、黒子はまたバッグの中をごそごそと探ると、こんどはライトブルーの表紙の、でもやはりよく見ると花柄でキラキラした本を取り出してきた。タイトルには「脈アリなカレにグッと迫る!恋するふたりの恋愛最終ステップ☆裏ワザメール集」と書いてある。

「なんだよこの本!!!うちの図書館どうなってんだ!」
「新設校にしてはけっこうな品揃えですよ。ぜひ今度は自分で図書館に足を運んでみてください」
「絶対またオレの名前で借りただろ!」
「もちろんです。記念すべき2冊目です」
「てか・・・脈アリって、こんなんオレにはまだまだ先だろ」
「いや、僕はあるような気がするんですけど」
「ねえって」
「それでもせっかく借りたんだから読んでください」
「こんなん読む気しねえよ」

 しかし結局その晩、氷室から「オレが決勝ってどういう意味だ」という一文だけの恐ろしいメールが来て、火神は黒子に押し付けられた「脈アリなカレにグッと迫る!恋するふたりの恋愛最終ステップ☆裏ワザメール集」のページを慌てて繰ることになるのであった。











Jan.30.2014