NO LONGER A BROTHER 2月の初めに、いきなり廊下で名前も知らない女子生徒(見かけたことはあるので、おそらく隣のクラスである)から「氷室くんってチョコレート好き?」と聞かれて、氷室はどう答えるべきか、と一瞬戸惑った。 つい最近、練習後の部室で「日本のバレンタインは女子が好きな男にチョコレート渡すんだよ」「今年は氷室がすげえ数もらうんじゃねえの」などと話題になったばかりだったので、おそらくそのことだろうと察しはついたが、チョコレートは嫌いではないがそこまで大好きというほどでもない。面倒だな、というのがまず頭に浮かび、それからつい最近兄弟関係から恋人関係に変わったばかりの弟分の顔もチラついた。 氷室が無難な答えでかわそうとすると、どこにいたのか後ろから急に紫原が出てきて、 「えー、室ちんがもらっても食べないならオレが食べるよー?」 と話に割り込んできた。その女子は「えっ!紫原君が!?ほんとう!?」と嬉しそうに言って、近くにいた友達とキャーキャー叫びながら走り去って行った。 「アツシ・・・勝手に答えるなよ」 「別にいいじゃん、室ちんはもらうだけなんだし」 まあ、もらうだけならいいか、とそのときは氷室も思ったのである。 しかし世間は、泣きぼくろの美男子を黙って放っておくほど甘くはなかった。 紫原の「室ちんがもらっても食べないならオレが食べるよ」という一言は、いつの間にか陽泉高校の1年生から3年生、寮の清掃員、さらになぜか学校近くのコンビニ店員にまであっという間に広がっていった。 そして氷室に渡せば紫原が食べるから何個あげても迷惑にはならないだとか、氷室に渡せば自動的に紫原にもあげたことになるから一石二鳥だとか、紫原に一度餌付けしてみたかっただとか、去年バスケ部活躍したから今年も頑張ってほしいし何かあげたいとかそういう拡大解釈がされていき、つまり氷室にチョコレートを渡すハードルはぐんぐん下がっていったのである。 その話を聞きつけて、悪ノリし始めた部員もいた。誰かが朝練後に 「バレンタイン陽泉バスケ部ダブルエース大感謝祭!チョコレート受付窓口→2-B 氷室」 と書いたA3サイズの用紙を紫原の背中に貼りつけて、紫原がそれに気がつかないまま1日を過ごしたせいで、さらにバレンタインに向けてよくわからないお祭り感が増してしまったのである。張り紙は放課後に気づいた氷室が慌ててはがしたが、時すでに遅しであった。そのあと氷室は部室で「これは誰がやったんだ」と声をあげたが、怖すぎて誰も名乗り出なかった。(ついでに紫原の背中は今後広告スペースとして有料で貸し出せるんじゃないかと話題にもなった。) そしてバレンタイン当日。氷室は朝から晩まで、何度も呼びだされ、いたるところで声をかけられ、教室の外には行列ができた。行列を見て一体なんの握手会だとのぞきに来る野次馬もいた。氷室はすべてに「応援ありがとう」とアガペー全開の営業スマイルで対応したが、「ありがとう」にいちいち「応援」と付けたのは、そうでもしないと重い感じがしたからである。もはやひとつひとつのチョコレートの意味など考えていられなかった。ほとんどが氷室宛てではあるが、中には「氷室くんと紫原くんへ」「陽泉バスケ部一同様」なんて書いてあるのもあるし、個別に対応していられない。 バスケ部の名を背負っていることもあり、好意は無下にできない。しかしおかげで食事中にも何度も呼び出されたし、移動するたびにひと騒ぎで練習に行くのも遅れ、氷室のストレスと疲労は限界に達していた。だがそれが顔に出ないので、他の部員から陰で「神対応」「氷室はプロだ」とひそひそ言われていた。 もらったチョコレートはバスケ部員が協力体制で運び、寮に戻ったらなぜか劉の手によって手際よく宛名別と、それからチョコレート本体とついていた手紙に仕分けられた。その光景を見た岡村が顔面格差社会に絶望して暴れ出しそうになったが、「バスケ部一同」宛てのものもけっこうな数があったので、それを目の前でちらつかせるとどうにか正気を取り戻した。 仕分けが終わると、バスケ部宛てのチョコレートは部室に共有財産として置かれ、氷室宛てのものは紫原に、ダブルエース連名のものもやはり紫原に渡った。紫原は早速「あー、これ駅前の店のやつだ、オレこれ好き〜」などと言ってラッピングをバリバリと破きはじめている。 そして最後に、氷室には輪ゴムで適当にまとめられた手紙の束だけが「おつとめ御苦労さまアル」というヤクザ映画で聞くようなフレーズの言葉と共に手渡されて、氷室は一日牢獄で働かされていたかのような疲労感を覚えた。 騒ぎがひと段落すると、氷室はぐったりとして自室に戻った。キツい練習の後とはまた違う、精神的な疲れであった。黙ってやられるタマではないので、騒ぎを大きくさせた部員は必ず見つけ出して何らかの方法で報復してやると思ったが、今日はもう頭がうまく働かない。とりあえず学校に無記名で投書して、来年はチョコレートの持ち込みを禁止させようと誓った。 もうこのまま寝てしまおうか、と目を閉じると、ふとベッドの上に放り投げてあった携帯電話が振動した。無視してもずいぶん長くコールが続くので、仕方なく手に取ると、画面には「タイガ」と表示されていた。もう誰とも話したくないくらい疲れているけど、そういえば今日は恋人同士にとっては特別な日だった。 火神とはWCで兄弟関係を修復したが、それだけにとどまらず、火神が決死の告白をし、氷室はそれが意外と嬉しかったというかむしろ自分はずっとこれを望んでいたんじゃないかと思ってしまったため、さらにその先のお付き合い関係にまで踏み込んでいた。 口約束とリングで兄弟関係を締結したことのある二人は、恋愛関係も口約束で成立できているような気がしていたが、実際には遠距離のせいでまだそれらしいことはほとんどできていなかった。学校が始まれば会いに行く時間もないし、普段はメールと電話がせいいっぱいである。通話ボタンを押すと、火神が焦ったような声で言ってきた。 「あ、タツヤ、今大丈夫か?ひょっとして寝てた?」 「いや、ただ、気づかなかっただけだ。平気だよ。なに?」 「いや、特になにってわけじゃねえけど・・・ええと、その、happy Valentine's day」 「ああ・・・happy Valentine's day」 実際は氷室にとっては全くハッピーな日ではなかったが、とりあえず定型の挨拶を返した。ただ、もう聞き飽きてうんざりしているこの話題であっても、事情を何も知らない火神から心のこもった声で言われると、不思議と、全身に自然と染み入るように響くのがわかった。 「ほんとは何か用意したかったけど、タツヤ寮だし、そっちに送ったりしたらイヤかと思って」 「・・・そうだな、気持ちだけでいいよ」 寮なんてプライバシーがあってないようなものだ。何を送るつもりだったが知らないが、アメリカ式にバラの花束やバルーンでも送りつけられた日にはたまったものではない。 とはいえ、氷室は今日一日これだけ赤やピンクのハートに囲まれてバレンタインのことばかり考えさせられていたのに、自分自身は火神に何か用意するとか電話をかけるだなんてことは全く思い至らなかったことに気がついた。こういうイベントに無頓着そうな火神ですら、プレゼントを郵送することまで考えていたというのに。 オレにとってはまだまだタイガは弟って感じなのかな、と氷室はすこし後ろめたさを感じた。 「で、タツヤさ・・・今日、チョコいっぱいもらっただろ」 火神がおずおずとした口調で切り出してきた。これが本題、といった感じもする。あまり普段の火神が考えつきそうなことでもないから、おそらく誠凛バスケ部の仲間にでも不安をあおられて、気になってしまったのだろう。 「・・・まあね」 「タツヤ、いくつもらった?」 「数えてない」 「なんだよそれ」 「ほんとに数えてないんだ。でもたしか・・・オレ宛てのは、ろく・・・」 「え、6個か?意外と少ないんだな!!」 火神の早とちりに氷室はイラっとしたが(6個くらいさすがに数えられる!)、さっきまで不安そうだった火神の声が一気に明るくなったので、その先の「60個くらい」という続きを言いだすことができなかった。火神がいったいどれだけの数を想定していて6個を「少ない」と見なしたのか知らないが、この調子だと、本当の数を告げたらパニック状態に陥るように思えた。 「そっか、タツヤは高い花って感じするから、意外と渡しにくいのかもな!」 そっかー、と火神は勘違いしたまま一人で嬉しそうに納得している。―――高嶺の花ってことを言ってるのかもしれないけど、実際のオレはそれどころかアツシとセットで大安売りされて大バーゲンセール状態だったよ・・・花としてはセイタカアワダチソウくらいのレベルだよ・・・と氷室は今日一日の騒動を思い出してまたげんなりした。 「そういうタイガはどうなんだよ、お前だってエースだろ」 「いや、オレは3個だけだし、そのうち1個はカントクだし・・・」 「他は?」 「クラスの女がみんなに配ってた」 「あとひとつは?」 「他のクラスの女子からもらった」 「ふうん・・・やっぱりもらってるじゃないか」 「いや、でもそれは全然知らないやつだったから!なんでくれたのかもよくわかんねえし」 「・・・」 なんでくれたのかよくわかんねえって、そういう女が一番マジなんだろ?絶対他の女どうしが牽制し合ってる中で、出し抜いて行動できるような性根の女なんだろう?今まで知らなくても今日をきっかけにしてどうせ明日から「昨日のチョコ食べてくれた?」とか言ってまとわりついてくんだよ、そんなことも気づかないからお前は甘いっつってんだよ―――と氷室は思った。今すぐそのチョコレートを奪い取って窓から雪の中にミラージュシュートして、雪国の遅い春まで掘り出されないようにしてやりたいが、残念ながら相手は東京である。 氷室の不穏な空気を電話越しにでも感じ取ったのか、火神は「でもタツヤはオレの倍もらってるし、やっぱタツヤはすげえよな!」と無理に明るく話をまとめてきた。そして、そこから「春休みにタツヤに会いたい」「オレだって会いたいけど練習日程決まるまで計画たてられないってこないだも言っただろ」という、最近電話するたびに出てくるおなじみの話題になったあと、互いにグッドナイトを言って通話を切った。 話を終えると、氷室はまたベッドにぐったりと身を横たえた。さっきまでの疲れに加えて、火神に対するフラストレーションも増している。 いくら自分のほうがはるかな数をもらっていても、氷室は自分の1個と火神の1個を同等に考えることができない、Don't think the chocolates to be fair的な考えの持ち主であった。自分の個数はすっかり棚にあげて、火神に渡した他のクラスの女子生徒と、それを何とも思っていない火神に対してイラついて仕方なかった。それに、ネズミというのは一匹みつけたら、他に何十匹も隠れているものだ。 ―――絶対タイガのことだから律儀に全員にお礼するんだろ、しかも何も考えないで。それでお礼されたその女が周りに自慢して、やっぱり火神君って見た目ちょっと怖いけどいいよね!みたいな話になるんだろ、I can EASILY imagine it, Damn it,そういうのが甘いんだよ。考えて行動しろって、昔から言ってるのに。 ふと机の上に放り出したままの手紙の束が目にとまり、結局正しいチョコレートの数は告げなかったけど、この手紙をそのまま全部火神に送りつけてやりたい、という悪趣味な考えが浮かんだ。数えていないし中も読んでいないが20通はありそうだから、見たらさぞかし狼狽することだろう。あの眉を下げて、「なんだタツヤ、こんなに人気あるんじゃねえか」と不安にかられる火神。そんな火神を想像すると、胸の奥が甘く疼いた。 昔はたしかに、彼を守りたかった。あの異郷の地で、自分がいくら子供で無力であっても、大切な弟分をこの世のあらゆる不安や痛みから守るんだ、という使命感に駆られていた。今だって、もし誰かが火神を傷つけるようなことがあったら、身を呈してでも彼を守るだろう。 ―――でも、オレだけは。オレだけは許してくれないか、タイガ。 恋人同士を名乗ってから、ときどきそんな残虐な気持ちがわきおこることがあった。他の誰にも許さないが、自分だけが心配させたい。思い切り悩ませたい。困らせたい。離れていても、火神の中を自分への気持ちで埋め尽くして、誰も触ったことのない心臓に触れて、自分だけがそれを握り潰せる権利を得たい。兄弟を誓った子供のころの自分が聞いたら激怒しそうな、自分勝手な考えだった。 ―――さっきはまだ兄貴気分が抜けてないのかなんて思ったけど、こんなのもう兄貴の考えていいことじゃない。こんなことを考えるオレは、やっぱりもう兄貴失格だ。 氷室は枕に顔を埋めて、渦巻く感情の波が過ぎるのを待つようにじっとしていたが、しばらくすると起きあがって、勢い任せに「さっき電話で言ったチョコレートの数は嘘だよ」という火神宛てのメールを作成した。 それからベッドの端に座って、考え込みながらメール作成画面を黙って見つめていたが、結局、送信ボタンを押すことはなかった。 火神が電話越しに言った、染み渡るようなHappy Valentine’s dayの優しい響きが、今も耳に残っていた。 兄貴分は失格でも、恋人として、火神にはやはり幸せなまま1日を終えてほしいと思ったのだ。 Feb.9.2014 |