アイランド・イン・ザ・サン And it makes me feel so fine I can’t control my brain 火神が重苦しい意識の底から目を覚ますと、目の前には一面にコバルトブルーの空が広がっていた。この色はどこかで見たことがある、とぼんやりした頭でしばらく思いめぐらせたあと、これがかつて住んでいたロサンゼルスの空の色と同じであることに気がついた。 しかしどうして今そんな空の下にあおむけで横たわっているのかは、まるで思い出すことができない。しかも頭がズキズキと痛み、全身が鉛のように重く、身体を動かすのも億劫だった。どこかから聞き慣れない鳥の声と、波の音がする。視線だけを横にやると、そこにはリゾート地のパンフレットにでも載っていそうな白い砂浜と、鬱蒼としたジャングル。そして反対側には砂浜の先に美しい濃い青の海が広がっていた。それから数メートル先の波打ち際に何か黒い大きなものが転がっていることに気がつき、火神はなんとなく、あれはガラパゴス・シーライオンだ、と思った。 何年も前だが、まだアメリカにいたころ、テレビでガラパゴス諸島の生きものの特集を見たことがあった。氷室の家に遊びに行っていたのか、そのときは氷室がいっしょにいて、リビングで並んで画面を見ていた。 番組では、カメや色鮮やかな鳥だけでなく、ぎょっとするような造形の爬虫類や虫もアップで映った。夢に出てきそうだと思った火神は気味が悪くなってきてチャンネルを変えたかったのだが、10歳にもなって大きいトカゲが怖いというのも認めたくなかったし、氷室が熱心に見ているので言い出すことができなかった。氷室はナレーションが説明するガラパゴス・シーライオンと普通のシーライオンの違いなんかを真剣に聞いていて、いつの間にか火神は画面よりも氷室の横顔のほうをじっと見つめていた。ガラパゴス諸島の生きものより、すぐそばにいるこの兄貴分の造形のほうがずっと不思議なような気がしてきたのだ。 そんな昔の出来事ははっきりと思い出せても、どうして今こんなところにいるのかは、意識が覚醒してきてもいっこうに思い出せそうになかった。そもそも直近の記憶が何年の何月何日だったのかもわからない。ただ普通に高校生活を送っていたことしかぼんやりと思い出せず、ここに至る経緯などはすっぽりと抜け落ちているようだった。 火神が重い身体をゆっくりと起こすと、髪や服についた白い砂がぱらぱらと落ちた。そしてあらためて周囲を見渡すと、さっき何故かガラパゴス・シーライオンだと思った波打ち際の黒い塊はガラパゴス・シーライオンなんかではなく人間であり、しかもよく知った人物であることに気がついた。 「タツヤ・・・?!」 秋田にいるはずの氷室がどうして、と疑問は浮かんだが、それよりもぐったりと力なく倒れている氷室の姿に、心臓が凍りつきそうだった。あわてて駆け寄って「タツヤ!おい!大丈夫かよ!」と大声で名前を呼びながら両肩を掴んでがくがくと揺さぶると、氷室はうめき声をあげて、うっすらと目を開けた。 「タイガ?・・・どうしてお前がここにいるんだ?」 「タツヤ!よかった・・・!」 氷室は不思議そうに火神を見つめ、やはり状況を把握できていなさそうではあったが、火神はとりあえず生きていてくれたことにホッとして、氷室の濡れた身体に思いきりしがみついた。 * * * 氷室は一度目覚めると、むしろ火神よりも元気だった。立ちあがろうとしたときにふらついた火神を氷室が支えるようにして、強すぎる日差しを避けるためにとりあえず砂浜と密林の間の日陰に移動し、状況を整理した。 「どうしてこんなとこにいるのかまったく覚えてねえんだけど」 「オレもあんまり確かじゃないけど・・・」 火神より少し記憶があるらしい氷室の話だと、どうやら今は夏の合宿で、たまたま陽泉と誠凛の合宿先がかぶり、そのなかの一日のエクスカーションで船に乗ったはずだ、とのことだった。そして氷室もそこから先は思い出せない、と言う。だいたい船には他の部員だっていたはずだし、もし何らかの理由でふたりだけが船から落ちたのだとしても、そろってこんな他の陸地も島も見えないところまで流されるとは考えにくい。納得のいかないことだらけであったが、起こってしまったことをとやかく言っても埒があかなかった。 ふたりはあらためて周囲の様子を確認してみたが、見渡す限り、人の気配も、建物もない。海は見渡す限りの水平線だし、砂浜から続くジャングルは木が鬱蒼としげっていて、その奥は見えなかった。ただ、ここからは孤島のように見えるが、砂浜に沿って歩けば実際は陸続きかもしれないし、どこかに誰かが住んでいる可能性もある。 とりあえず誰かいないかオレが探しに行って来るよ、と言って氷室が立ち上がった。 「オレも行く」 「タイガはここで待ってろ。さっき足元ふらついてただろ。オレのほうが歩ける」 「でも、ひとりじゃ危ないかもしれねえだろ」 「大丈夫だって、すぐ戻ってくるから。むしろオレはタイガのほうが心配だ。ここから絶対に動くなよ」 そう言い残すと、氷室は火神を置いてさっさと探索に行ってしまった。 ひとりで待つ時間はやたら長く感じられたが、時計も携帯電話もないので実際どれくらいたったのかはよくわからなかった。何度も氷室の後を追って行こうかと思ったが、絶対に動くなよときつく言われたことと、確かに体調が万全でないことは自分でも感じていたので、火神はぐっと堪えて待つことにした。 しばらくすると、氷室は歩いて行った方向と反対側の砂浜から戻ってきた。何があったのか黒いTシャツを脱いで、手に持っている。同性の上半身の裸なんて見慣れているはずだが、氷室の身体は白く光る砂浜に映えてやたら眩しく見え、火神は思わず目をそらした。 「意外に早く一周できたから、そんなに大きな島じゃないな。ただ、建物もないし、船が泊まりそうなところもなかった。無人島みたいだ」 「そうか・・・」 「ああ。でもとりあえず果物見つけたから持ってきたよ。タイガ、喉渇いただろ」 氷室はTシャツにくるむようにして運んできたらしい大きな果物をごろごろととりだした。いかにも南国といった感じの鮮やかな紫色の果実だが、スーパーマーケットなどでは見たことのない種類である。 「これ、食って大丈夫なのか?毒とかあるかもしれねえよな」 「さっきオレが食べて大丈夫だったから、大丈夫だと思う。もう30分は経ってると思うし、もしダメならオレに症状出てるだろ。あと水が湧いているところも見つけたから、タイガが歩けるようだったら後で行こう」 「・・・タツヤすげえな」 自らの身をもって迷いもなく毒見する兄貴の行動力に、素直に感心すると同時に心配にもなった。ただ、果物は甘くてみずみずしく、食べると火神も少しは元気が出たように感じた。 そのあとで水が湧いているところも行ったが、その際も氷室は「上流に何もなかったし、水棲の虫がいるからたぶん問題なく飲める」という謎の知識を披露してきた。火神が「なんでそんな詳しいんだよ」と聞くと、氷室は「昔サバイバル映画で見ただけだよ、だから正しい知識かはちょっと怪しいけどね」と笑って答えた。 島の様子がだいたい把握でき、水と果物が見つかったことで、火神も氷室も少し落ち着いた。氷室が2、3日以内には救助が来るんじゃないかと言うので、ふたりは砂浜に大きくSOSと書いて、大きなシュロに似た葉を利用して砂浜の端に簡単なテントのようなものを作り、そこから沖に船が通らないかを見張りながら助けを待つことにした。 映画で得たという知識だけでなく、氷室の一見冷静に見えて最後はわりと力技で解決する性分はけっこうサバイバル向きらしかった。火神は普段の生活力なら氷室よりあるつもりだったのだが、蔓でロープのようなものを作って大きな葉を大雑把ながらもうまく束ねていく氷室を見ると、こういうシチュエーションではそんな普段の行いは関係ないのだと悟った。 火神だって魚をさばいたりならできるのだが、ここには包丁もないし、そもそも海にも川にもメダカ程度のサイズのいかにも不味そうな薄紫色の魚しかいなかった。鳥やウサギのような小動物がいる気配はあったが、さすがに火神も動物の皮を剥いだことはないし、この非常事態でいきなりそこまでして果物以外のものが食べたいわけでもなかった。 そのため、氷室がふいに「タイガ、肉食べたい?」と思いついたように聞いてきたが、笑顔で器用に動物の皮をはぐ血まみれの氷室の姿が簡単に想像できたので、火神は慌てて首を横に振った。今の氷室なら何でもやりかねない、と思ってしまった。 氷室の妙にいきいきした様子に戸惑いを覚えながらも、火神は「一緒にいるのがタツヤでよかった」と心の底から思った。自分ひとりだったらここまで手際よく水や食べ物などを見つけられるはずがないし、他の誰かとふたりでいてもこんなに安心できるとは思えなかった。氷室自身だってこの状況への不安やチームメイトへの心配はあるに違いないのに、そういう部分は少しも見せず、それどころか火神の不安を察知すると「すぐに救助が来るよ」「大丈夫だから」などと言って励ましてくれる。ひさしぶりにタツヤが兄貴っぽいところを見たな、と火神は思った。 夜になると、満天の星が空を覆った。見ていると吸い込まれそうになる星空は、今が日常とは違うという状況を嫌というほど知らしめてくる。簡易テントの下に並んで横になると、すぐ近くで氷室の白い首すじが闇の中に浮かびあがるように見えた。火神はそれを見て何か大事なことを思い出しそうな気がしたが、疲労がピークに達していたので深く考えずにそのまますぐに眠りについてしまった。 * * * 翌朝になると、氷室が煙をあげるために火をおこすと言い出した。ライターもなしに火をつけるというと火神にはマンガで描かれた原始時代のような漠然としたイメージしかなく、そんなに簡単ではないだろうと思っていたが、火神が果物採集に出かけている間に氷室は灌木と石を器用に使って煙を立たせていた。そして火神が言われるままに横から大きな葉で煽いで種火に風を送り、上に乾いた木と濡れた葉を積んでいくと、それなりに煙の立つ焚火ができてしまった。 火が思いのほか簡単についてしまうと、他には特にやることもなくなった。細く煙が立ち上る横で、ふたりは座って海を眺めながらいつ来るともしれない助けを待っていたが、ふと氷室が目を細めて、遠くの砂浜を指差し「何かあっちの浜に落ちてる」と言った。まさか死体とかじゃねえよな、と火神は恐ろしい想像をしてしまったが、それを氷室に告げるより先に、氷室はさっさとひとりで何が落ちているのか見に行ってしまっていた。 「ボールだったよ」 「え?」 そして氷室が手にして戻ってきたのは、あろうことか、ふたりには非常になじみのある―――バスケットボールだった。 「な、なんでこんなとこにボールが落ちてんだよ!しかもわりと新しくねえか」 「昨日は落ちてなかったから、オレたちのあとから流れ着いてきたのかな」 「使えそうか?」 「水は入ってないから平気そうだけど・・・せっかくだし、やるか?」 「見張りはどうすんだよ」 「煙がたってるから大丈夫だろ」 ただ水平線を見るだけの時間に氷室も飽きてきていたのか、結局はバスケバカということなのか、ふたりは見張りそっちのけでバスケをすることにした。 砂浜だとやりにくいので、氷室が昨日探検したときに見つけたという地面が土で平らになっている場所に移動した。そこは過去に遺跡があったと言われてもおかしくないような、密林の中に唐突にある不思議な平地の場所だった。 ただゴールはさすがにないので、とりあえずいつものゴールくらいの高さにある、曲がった枝の内側に入ったら1点ということにした。 1on1を始めると、氷室は相変わらずきれいなフォームでシュートしているが、火神はバッシュじゃないせいか、踏み込みにくい地面のせいか、思うように跳ぶことができない。地面はぬかるんでいるというわけではないが、跳ぶ瞬間に沈み込むような妙な感覚があって、いつものような高さに届かなかった。 それでも時間を忘れて取ったり取られたりのいい勝負を繰り広げて、ふたりは自分たちが今遭難しているという事実をしばらく頭から追い払って、いい気分転換をすることができた。 「あー、あちぃ。シャワー浴びたい」 「海に入ればいいだろ」 「海の水だと、乾いたらザラザラして磯臭くなるじゃねえか」 気の済むまで1on1をして、くたくたになったふたりはまたベース・キャンプである砂浜に戻ってきた。火神が暑い暑いといいながら波打ち際で浅瀬に足をつけていると、急に後ろから「ほら、好きなだけ水浴びしろよ!」と氷室に思いきり蹴りとばされて、火神はバランスを崩し、ちょうど寄せて来た大きい波の中に派手に転んだ。 「うっわ、なにすんだよタツヤ!」 「You don't want to turn your back on me!」 全身びしょびしょに濡れてしまった火神を見おろして、氷室はオレに背中を向けないほうがいいよと楽しそうに笑っている。火神は文句を言おうとしたが、ロサンゼルスと同じ色の空の下で笑う氷室を見あげて、急に胸がしめつけられるような気持ちになった。 これが懐かしさのせいなのか、一時期の不仲を乗り越えられたことへの喜びなのか、よくわからない。ただただ胸の奥が疼いてしきりに何かを訴えていたが、それが何であるかという答えを出すことができず、もどかしさをかき消すように、仕返しに氷室の腕をつかんで波の合間へ引きずり込んだ。 * * * 果物採集や島の探検(といってもジャングルばかりで目新しいものは見つからなかった)、それから水平線の見張り、飽きたらバスケという同じルーティンを繰り返していると、3日目もあっという間に過ぎた。 相変わらず、いっこうに飛行機や船が近くを通りかかる様子はない。慌てても悩んでも仕方がないとわかっていても、火神は誠凛のメンバーや父親のことが気になって、いても立ってもいられなくなってきた。誠凛のメンバーは絶対に無事でいると信じているが、自分が今行方不明扱いになっているとしたら、アメリカにいる父親が聞いたら心配するだろう。仕事が多忙でめったに帰って来ないのに、もしこんなことで無理に帰国することになっていたらかなりの迷惑をかけてしまう。次第にそんなことを黙って考え込んでしまうようになり、そういう火神の様子には一緒にいる氷室も気が付いているようだった。 そして3日目の夜になって、火神が焚火の前に立って星空と暗い海を眺めていると、氷室が隣にやって来た。 「タイガ、やっぱり助けが来なくて心配かい?」 「あー・・・そうだな、オレ自身のことは別にいいんだけど・・・チームのみんなとか、親父とか、やっぱ気になるな」 「早く帰りたい?」 氷室は右側に並んで立っているので表情が髪に隠れてよく見えないが、これだけ助けが来るのを期待して見張りや焚火をしているのに、いったいどうして今さらそんなことを聞くんだろうと火神は少し不思議に思った。 「当たり前だろ。変なこと聞くなよ。・・・でも、心配かけてるのは嫌だけど、タツヤと一緒にいられるのは楽しいぜ」 「そうか」 「タツヤが一緒で、マジでよかった。オレひとりだったら、絶対水も探せなくって、変なもん食べてすぐ死んでると思うし・・・。やっぱりタツヤはほんとにすげえよ。オレの自慢の兄貴だぜ」 他に誰もいないせいか、夜がそうさせるのか、いつにもまして氷室に対して素直な言葉が出てくる。横を見ると、氷室はこっちを向いて、目を細めて嬉しそうにしていた。 そのとき、氷室の後ろに広がる満天の星空に、流れ星がいくつか落ちていくのが見えた。にぎやかなくらいの星空に対して、地上は静まり返っていて、波の音と足元の焚火がパチパチと燃える音しかしない。あまりに静かすぎて、まるで世界にはこの島以外にも誰もいなくて、本当にふたりきりしかいないんじゃないかと思えてくるほどであった。 そしてさっきまであれほど何かと心配していたのに、こうして氷室と黙って見つめ合っていると、不思議と、ここにふたりしかいないことがほんとうの幸福であるような気がしてきた。 火神は急に照れくさくなってきて、何か他の話題を口にしようとしたが、そのときにふと、奇妙な点に気がついた。 ふたりは砂浜に並んで立っていたが、記憶の中では少し見下ろしていたはずの氷室の顔が、自分と同じ高さにある。―――つまり今、氷室と火神の身長は同じくらいだということだった。 氷室の背が伸びたのか、いや、それとも昨日バスケで最初にジャンプしたときに感じた違和感からして―――ありえないことだが、自分が縮んだのか。そして、どうしてこんなことに今まで気がつかなかったのか――― 「タツヤ・・・なんかおかしくねえか」 「なにが?」 「オレたち、背の高さ同じだったっけ」 氷室はそれを聞いても動じる様子がなく、それどころか可笑しそうに笑って「なんだ、今さら気がついたのか?」と言った。 その口調に、火神は背筋が凍るような気がした。 そもそもなぜふたりだけが無傷でこの島に来たのか。どうしてここに来た記憶がないのか。なぜ水も食べ物も簡単に見つかったのか。なぜ火は簡単についたのか。なぜ退屈していたときにバスケットボールが流れ着いてきたのか。あの密林の奥の、ちょうどストバスコートくらいの広さの平地。そしてロサンゼルスと同じ色の空―――今まで考えてもしょうがないと思っていた疑問点、うまくいきすぎていると思っていたことが、ふたたび火神の中に一気に浮かびあがってきた。 「今さらって・・・タツヤなんか知ってたのか?なんなんだよ、どうなってんだこれ」 「オレもよくわからないけどさ。タイガの背を縮めるなんて、相当オレもセンス悪いよね」 「え、何言ってんだ」 「たぶん、オレが最後にもう一度タイガの兄貴になりたかったんだろうな」 「最後?最後ってなんだよ、タツヤはずっとオレの兄貴だろ」 「付き合わせてごめんな、もう帰ろう。たぶんオレが帰ろうと思えば、すべて終わるんだよ」 「何言ってんだか全然わかんねえよタツヤ!」 途端に、足元から地面が崩れていくような感覚に襲われて、火神は慌てて目の前の氷室の身体にしがみついた。見ると砂浜は雲のようなぼやけた物体に変わっており、浮かんでいるのか立っているのかもよくわからない。海もどこかで栓を抜いたみたいに、見る見るうちに干上がっていく。 「怖がるなよ、タイガ。お前のほうが変えたいって言い出したんだろ」 「オレが?何を変えたいって・・・」 氷室はそれには答えず、ゆっくりと空を見上げた。すると魔法が解けていくみたいに、いくつもの星がクリスマスのオーナメントのような形になって次々と落ちてきて、暗い空はカーテンみたいに折り畳まれていった。 火神には目の前で起きていることが信じられなかったが、空や海が舞台装置のようにいとも簡単に崩れていくのを見ても、なぜか驚きや恐怖よりも心が痛むほうが強かった。もし本当にあの美しい景色が、氷室の何かと繋がっていたというのなら―――それはさぞかし氷室の大事なものだったのだろうと思ったのだ。 「タツヤ、壊しちまって、いいのか」 「いいんだよ。後悔なんかない。昨日の夜のことはオレだってずっと同じ気持ちだったんだから。この島は、ただのオレの感傷の塊だよ。卒業旅行みたいなものさ」 「昨日の夜?」 昨日はただ砂浜で並んで寝ただけのはずだが、何かあっただろうかと火神が思いめぐらせていると、急に氷室に口づけられた。 何の前触れもないキスに驚いたが、何故かこうなるのがごく自然な気がして、火神はそのまま氷室の唇に応えて、深く口づけた。足元はもう感覚がなくて、足ごと溶けてなくなっているかもしれない、とさえ思えた。 自分の輪郭がぼやけていくような、しがみついた氷室と触れているところからゆっくり溶け合っていくような、奇妙な気分だった。その代わりに意識はどんどん鮮明になってきて、記憶が失われていた部分の霧が晴れるように、次第に思い出してきた―――この島に来てからなぜか抜け落ちたようにすっかり忘れていたが、火神自身が、氷室のことをどう思っていたのか。 ―――なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。それともタツヤ、アンタがオレに忘れさせてたのか。オレともう一度、何もかも忘れて、ここで兄弟みたいに過ごすために。アンタが最後にもう一度オレの兄貴をやるために―――『昨日の夜』に、オレとアンタがあんなことをしたから。 * * * 火神が深い眠りから目を覚ますと、そこにあるのはいつもと同じ自室の天井だった。長いこと夢を見ていたような気がしたが、何の夢だったかは思い出すことができない。ただ頭がいつもよりぼんやりして、そして身体がどこか重く―――そこでいつもの朝とは何よりも違う点に気がついて、一気に目が覚めた。なんだか妙にベッドから落ちそうな位置にいると思ったら―――同じベッドに氷室が眠っていたのだ。 ブランケットからのぞく氷室の肩はむき出しで、火神は昨日の夜に起こったことをはっきりと思い出した。というより、一生忘れられそうにない。 昨夜、氷室が家に来たときに、火神は積年の思いを告げた。好きだ、兄弟という関係を変えたい、アンタと付き合いたい、と。絶望的な気持ちでの告白だったが、信じられないことに氷室も同じ気持ちだとわかった。そして自尊心が強い氷室のことだからきっと簡単には受け入れてもらえないだろうと思っていたのだが、予想に反して、火神は好きなように触れることまで赦された。 そうなってしまうと衝動がなかなか止められなくて、ずっと感じていた飢餓感を埋め合わせるように、今までの兄弟の期間をすべて塗り変えるように、火神は長い時間をかけて氷室の身体を貪った。性器が痛くなるくらいに何度も何度も中を穿って、気がついたときにはかなりの時間が経っていて、そのままお互い疲れきって眠ってしまったのだった。 そういった昨晩のことが微細に思い出されてきて、火神は恥ずかしさと同時に抑えきれない幸福感がこみ上げてくるのを感じ、横に眠る体を軽く抱き寄せた。やっとただの兄弟分ではなくなったんだというすがすがしい気持ちと、愛しさで胸がいっぱいになった。 そのときつい腕に力を込めてしまったのか、氷室が身じろぎした。火神は「やばい、起こしちまった」と慌てて手を離したが、もう遅かったらしく、氷室はうっすら目を開けた。とはいえ、ものすごく眠そうである。 「お、おはようタツヤ」 「おはよう・・・今何時だ」 「えーと、8時」 カラダ大丈夫かとか、昨日は嬉しかったとか、何と声をかけていいのかわからず、それに何と声をかけても格好がつかないような気がして火神が言葉に詰まっていると、氷室がまた目を閉じて静かに言った。 「・・・長い夢を見たよ」 「あ、オレもなんか見たような気がする、思い出せねえけど」 「オレのにはタイガが出てきた」 「オレがなにしてたんだよ」 「それは秘密」 「なんだよ、気になるだろ」 氷室はふっと笑みをこぼすと、火神に唇を寄せてきて、触れるか触れないかの距離で言った。 「―――オレには、すごく楽しい夢だったよ」 Mar.10.2014 |