氷室の提案に火神は大喜びで賛成したが、もともと火神は旅行とは縁遠い男だ。幼い頃から父親は仕事で忙しく、家族旅行に行った記憶はない。日本に来てからアメリカに行くことは何度かあり、周囲からは羨ましがられたが、それは火神にとっては旅行というよりただの帰省だった。高校では合宿や遠征なら何度も行ったが、一般的にいう旅行のようなものではないので、数えられるのはせいぜい修学旅行くらいのものである。誘った兄貴分は、火神のそんな事情も知っていた。 高校を卒業したのち、二人は結果的にはそろってというべきか、学年的には火神が氷室を追ってというべきか、ロサンゼルスに戻って大学に進む道を選んでいた。それから兄弟関係を超えてさらに複雑で親密な関係になってしまったが、学校も違い、お互いバスケも続けているのでなかなか忙しく、普段は暇を見つけて会うようにはしていても、二人で数日間にわたっての旅行というのはしたことがなかった。 せっかくなら国外に行こうか、と最初は大きく出たものの、いざお互いのスケジュールを突き合わせてみると二人の予定が合うのが五日間しかないのがわかった。それなら行先は近場で、ラスベガス、サンフランシスコ、いっそニューヨーク……と思いつく都市名を二人で挙げていたが、ネットで航空券を調べているうちに、メキシコに行っても移動時間も価格も大して変わらないことに気づいた。ロサンゼルスから飛行機で四時間ほどで行けるし、物価も安い。 ロサンゼルスからそう遠くない隣国でありながら、二人ともこれまで訪れたことはなかったが、よく出入りしていた賭けバスケにはヒスパニック系の連中も多くいたので、彼らがたまに使っている乾いた響きの言葉には親しみがあった。一応他にもいろいろと探しはしたものの、大して有力候補も見つからなかったので、かくして二人はメキシコに向かったのである。 * * * メキシコ東部にはアメリカ人も好む一大リゾート地、カンクーンがあるが、現在二人が向かっているのはどういうわけかそこから遠く離れた、密林の中のマヤ文明の遺跡であった。氷室が米国で買ってきたガイドブックのページを繰って、適当に見つけたものである。 宿をとった町からぼろぼろのバスに数時間揺られ、サボテンが生える荒野を延々と渡った。あまりに周囲に何もないため、このバスで本当に合っているのかと不安になるくらいだった。そして車内アナウンスもバス停の表示もないので、身振り手振りと片言のスペイン語で運転手に何度も確認し、二人はどうにか目当ての遺跡に着いた。火神は幼いころ、こんなふうに氷室とよく冒険したことを思い出した。あの頃の隣町への冒険に比べれば規模は大きくなったが、こういうとき常に氷室がずっと先導している点と、ドキドキする気持ちは昔とまったく変わっていない。 この遺跡は世界遺産に登録されているにもかかわらず、近くにあるもう一つの交通の便の良い遺跡のほうが有名なせいか、ハイシーズンではないせいか、観光客はひどく少なかった。係員もチケット売場にしかいないし、広い密林の中にひっそりと建造物が点在しているため、歩いていてもほとんど他の人間に会うことがない。また、柵でしっかりと囲われているような有名な遺跡と違って、整備が行き渡っておらず、実際に神殿に登ったり、中に入ってみることができるようになっている。保護という点では良くないのであろうが、特段マヤ文明の遺跡に興味があったわけでもない二人には、柵越しにしか見られない遺跡よりは面白味があった。ただ、階段などはかなり崩れかかったまま修復がなされていないうえに、まともな手すりもないので、それなりに自己責任を問われるところではある。 氷室がガイドブックを手にして、そこに書かれた説明を読みながら、二人は遺跡群の中を歩いた。遺跡は一見どれも同じような崩れかかった石造りの建物に見えるが、よく見ると奇怪なレリーフが彫ってあったり、なかなかおぞましい言われがあったりする。 あまり文化的なものの価値に興味のない火神だが、こうして知らない土地の、他に誰もいない場所で氷室と二人きりというのは、それだけでけっこう楽しいことであった。しかも昨夜、メキシコに着いたばかりの夜、氷室は旅先の雰囲気に酔ってか、いつもより優しかった。異国の地の安宿のベッドの上で甘やかされた記憶に、火神は表情を緩めた。さっきは二人だけの冒険が昔と変わっていないと思ったが、ここは大きな違いである。 「タイガ、あそこの壁に石の輪がついてるだろ」 ふいに氷室に言われて火神が見上げると、遺跡の壁の、バスケのゴールよりもかなり高い位置に、石でできたタイヤのようなものが縦に取り付けられていた。 「あれか? あれ何なんだよ」 「七世紀にここに住んでた人たちは、あの穴にボールを入れるスポーツをしていたらしいよ」 「へえ、バスケみてえ」 ゴールの位置は高いし向きも違うが、どうにか頑張れば入りそうだな、と思ってシュートの真似事をすると、氷室が「いや、手じゃなくて腰で入れたらしいよ」と言ってきた。いったいどうやって腰でボールを打って、あんな高いところに入れるというのか。はたして古代の文明というのは謎が多い。 でも青峰ならできるかもしれねえ、あいつフォームレスだからな…と、火神は青峰がこの遺跡で走り回って腰でボールを打つところを想像して、なんとなく納得がいった。色が黒いので日差しの強いこの地にも似合う気もする。しばらく会えていない好敵手のことを、火神はぼんやりと考えた。 「試合が盛り上がるほど、雨が降って豊作になると信じられていたんだって」 ふーん、と言って、火神は青峰がこの謎のスポーツの大会で優勝して、見事大雨を降らせるところを想像した。 「それで、いくつか説はあるみたいなんだけど、その競技の勝者は神への生贄にされたらしいよ」 「へえ……って、なんだそれ、負けた奴じゃねーのかよ!」 大会で優勝していた青峰がさっそく生贄として殺されそうになり、火神は焦った。なぜか想像の中で平然と処刑を執行しようとしていたのは黒子である。ひどいキャスティングだ。 「勝った人が神の生贄になる名誉を受けられる、ってことで殺されたみたいだね」 「マジかよ……でもそんなんだったら、誰だって手ぇ抜いてわざと負けるだろ……」 そう言ってから、火神はしまった、と思って両手で口を覆った。手を抜く、わざと負ける、というのはまさに火神がその昔氷室にやってしまい、氷室を激怒させてその後何年間もの確執の原因となったことである。そのこと自体は話し合って解決したはずだが、あまり今旅行先で思い出したいことではない。氷室も同じことを連想したのか、ただでさえ静かな遺跡にしばし重い沈黙が流れた。 どうにかして自然に話をそらしたい、と火神が頭を悩ませていると、氷室のほうが先に口を開いた。 「……昔は生贄になることが名誉だったんだから、わざと負ける人なんていなかったんじゃないのかな。それにしても上手い人から毎回殺されてたんじゃ、競技自体あんまり伸びないだろうね」 過去の自分の行為への言及はなかったので火神がひとまずほっとしていると、氷室が急に向き直って、火神の背後を指差した。 「で、今、タイガのすぐうしろにあるそれが、生贄台だよ」 「え」 慌てて後ろを振り返ると、そこには腰の高さくらいまでの石の台があった。今はどう見てもただの白い石だが、ここで多くの血が流されたとなると気分のいいものではない。 「今の時代に生きててよかったな。この時代だったらタイガはすぐに生贄にされそうだ」 氷室はそう言って微笑んだ。皮肉なのか、悪い冗談なのか、ある意味褒められているのかよくわからない。 火神が生贄の台におそるおそる触れてみると、太陽に照らされているせいで表面は熱を持っていた。密林の中で二人の他に誰もいないという異様な雰囲気のせいか、これまで火神自身が歴史のことなどに思いを寄せたことがないせいか、妙に心がざわついた。ここで殺された、何人もの生贄の選手たちのことが気になった。 七世紀の人間の考えることはよくわからないし、腰でボールを打つスポーツのルールもわからないが、それでもやはり、わざと負けた選手はいたんじゃないかと思うのだ。もし決められた名誉よりも、自分にとって大切なことがあったら。火神だって、以前の氷室との戦いで手を抜いたことは間違いだったと思っているが、もしまた氷室との関係を天秤にかけられたとしたら、同じ過ちを二度と繰り返さないとは言い切れない。そんなことはもう無いと信じたいが。 「それで、生贄はこの台の上で、生きたまま心臓を抜かれるんだって」 氷室は火神のすぐ隣に来て、悪趣味な説明を楽しそうに読みあげた。それからガイドブックを閉じると、人差し指で火神の胸の、心臓の上あたりに触れてきた。急に弱い部分に触れられて、火神の心臓は跳ねた。生きたまま心臓を抜かれるなんて、どんな気分だろう。それを名誉だと思うなんて、想像がつかない。 そのまま氷室は、すべるように、愛おしげに火神の心臓の上を撫でた。真上から照らす強い陽光が、氷室の伏せた睫毛の影を作る。聞いたばかりの遠い昔の話のように、このまま氷室の指が皮膚を突き破って、熱く波打つ心臓を掴みだす想像が火神の頭をよぎったが、不思議とそこに恐怖感はなかった。―――昔のやつらがどんな気持ちだったかはわからないけど、太陽の神とかそんな不確かなものじゃなくて、アンタにならオレは、生きたままこの心臓を捧げてもいいのに。火神はそう思った。 October.12.2014 |