「だからね、イギリスが、スコーンにつまずいて、ころんで、床に頭打って、記憶喪失になったんだって」 語学学校の教師のようなフランスの優しい口調に、つられて日本は「そうなんですか、わかりました」と素直に受け止めそうになったが、その直前で脳が拒否した。 「……ちょっと待ってください。スコーンってお菓子ですよね?つまずくようなものでしたっけ?」 他にも確認すべき点はあったはずなのだが、どういうわけか、まず口から出てきてしまったのはそんな質問だった。 「うーん、まあ、もはや食物兵器みたいな扱いだから、ありえるんじゃない?とりあえずアメリカはそう言ってたけど」 予想のはるか斜め上を超えた報せに混乱した日本に対し、フランスはいつもの調子でひょうひょうと続ける。 「さっき俺がイギリスの家に電話したら、アメリカが出てさ。入院に必要な荷物取りに来たとこだって言ってたけど。なんでも、昨日の夜にアメリカがたまたま遊びにいって、キッチンの床にのびてるイギリスを発見したらしいよ。周囲にスコーンが散らばりまくってたって。一人暮らしだと、こういうとき怖いよなぁ。でも、友だちいないあいつが無事に発見されただけでも奇跡だよ。記憶の問題だけで怪我は特にないみたいだし」 「昨日、ですか…」 日本は昨日の自分の行動を思い返した。あの頃、彼はひとりで倒れていたということか。そして、昨日、自分は何をしていたのか。そのことを考えると頭からざあっと血の気が引いていくのを感じ、日本は受話器を持っていないほうの手で近くの柱につかまった。 「そ、それで、記憶喪失って、どの程度忘れてしまっているんですか?」 「俺もまだ直接会ってないからよくわからないけど、アメリカからちょっと聞いた限りだと、言葉とか生活に必要なことは覚えてても、人の顔とか、今まで身に起こったことは全部忘れているみたい。アメリカですらも『お前誰だ』って言われたみたいだし」 「全部…ですか」 「うん。で、アメリカ、イギリスに忘れられてることがショックらしくて、めずらしくしょげちゃってさ。甲斐甲斐しく看病してるみたいだよ。やっぱ独立したとはいえ、こういうときは、あいつも弟だよなー」 イギリスのアメリカに対する思い入れの強さは日本も知っている。その相手ですら認識できないのなら、自分などは、言うまでもない。柱につかまる手に自然と力が加わった。 「とりあえず、あいつ、仕事はしばらく休むって。だいたい俺達ろくな仕事してないから、長期休暇とってもそんなに問題ないしね」 そうですね…、と半ば上の空で日本は答えた。確かに毎回自分たちが繰り返している会議の、まったく進歩のない内容を思えば、アメリカに文句を言ってフランスとケンカする人物がしばらくいなくなったところで、あまり変わりはしないかもしれない。いつもその姿を眺めていた日本にとっては、大きな変化だとしても。 「でさ、お兄さん明日さっそく病院へ見舞いに行こうと思うんだけど、日本も一緒に行かない?」 「えっ」 フランスの急な提案に日本は驚いた。 「だって、今のうちに、いつもと違うイギリスも見ておきたいでしょ?」 「えー………」 「あー、ひょっとして、俺がいると、邪魔とか?」 フランスが、いつもの含み笑いが容易に想像できる声で言う。 「そ、そういうわけではありませんが!」 「え、でも、付き合ってんでしょ?」 「な、なんですか、それ!?私とイギリスさんはそういう関係ではありませんよ!」 「あ、そうなの?こないだイギリスがやたら自慢してきたから、てっきりうまくいったのかと思った」 「どんな自慢されてたんですか……いえ、それはともかく、ほんとうに私とイギリスさんは、そういう関係ではなくて。だいたいイギリスさんが記憶喪失になった今、私のことも何も覚えてらっしゃらないわけですし、お会いしたところで困惑されるだけですよ」 「わからないよー。日本を見たら瞬時にすべて思い出すかも」 「えっ」 「お兄さんはそういう感動的なシーンが生で見たいなぁ」 「いえ、そんなことは絶対に、ありえないですから!」 電話越しでフランスから姿は見えないというのに、日本は顔の前で大きく手を振った。そして、口では否定しても、頭ではつい、想像してしまう。何もかも忘れているはずのイギリスが、自分の顔を見た瞬間に、目を大きく見開き、頭を抱えて痛みを訴える。そして「お…おまえ…日本?」とつぶやく。奇跡が起きて記憶は戻り、抱きあう二人。ハッピーエンド。……馬鹿な。それは少女漫画の世界で、現実には起こりえない。日本は妄想を振り払うように軽く頭を振った。二次元にとらわれてる場合ではない、今は緊急事態なのだ。二次元に傾倒するのも休み休みにしなければ。そんな暇があったら自国の最高の脳外科医にでも連絡を取るべきだ。 受話器の向うで「いや〜、ありえないとは言い切れないよ〜」とフランスは笑う。日本はからかってくるフランスに、ありえません、絶対にないですってば、と真面目に反論しながら、はたと今はこんなふざけた話をしてる場合じゃないのだ、と気付いた。 「…あの、フランスさんは、」深呼吸をひとつ。「……イギリスさんが記憶をなくされて、ショックではないんですか?」 それは先ほどから少し日本が気になっていたことであった。普段ケンカばかりしているとは言えど長年の友人である(はずの)イギリスの記憶が失われたというのに、この受話器の向こうの男には悲壮感が、ない。フランスは、うーん、と考えるようにうなって、答えた。 「俺も驚いたけどねー、まあ、いずれは戻るだろと思ってるし。それに、ひょっとしたら、あいつにとっちゃ、そっちの方が幸せなのかもなと思って。だいたいあいつが今あんなプライド高くて性格がねじ曲がってて友達がいないのも、昔の栄光だとか恨みつらみをネチネチ引きずってるからだろ?昔のことを忘れれば、アメリカとも新しい関係を築いてうまくやってけんじゃねーかな。もちろん俺ともね。そう思ってさ」 確かにその通りかもしれない、と日本は思った。彼の苦悩、困難、すべては過去の記憶から来てるといっても過言ではない。だからこそ、過去の記憶がないイギリスの姿など想像がつかないのだが。アメリカにうるさく注意せず、フランスに絡まないイギリス。ならば、彼は日本にも特別な関心を寄せず、ごく普通に接するのだろう。遠く離れた、島国のひとつとして。 「でも、ごめん。日本にとっては違うよね」日本が考えを巡らせていると、フランスが甘い声色でささやいてきた。「あいつ、何を忘れても日本のことは忘れちゃ駄目だよなー…だってあんなに日本のこと…ねぇ?」 それはどういう意味かと問いただしたいところだが、日本は何も言えない。何か言い訳をしたところで、この愛のエキスパートの前では地雷を踏みそうだった。 「やっぱり、会うの、怖い?」 黙っている日本にフランスが優しく訊く。怖い。その言葉は『困る』『驚いた』だとか、そういった単語よりも、記憶喪失の報を受けた日本の気持ちを的確に示している気がした。何もかも忘れているイギリスなんて。つらいこと悲しいことのみならず、嬉しかったことも優しい思い出も、すべて忘れている彼なんて。そうしたらふたりの間に何が残るというのか。その答えは、何も、だ。 「…ええ。まあ、逃げてはいけないとは思いますが、やはり完全に忘れられているとなると、」 アメリカさんですら誰だと言われるのなら、私なんて何の縁もないただの東洋人じゃないですか、と卑屈に続けそうになった言葉を日本は慌てて途中で飲み込んだ。それでもフランスは何かを感じ取ったのか、声をよりいっそう柔らかくさせた。 「そっか。でも、もしあいつが何もかも忘れたままだとしても、日本なら、きっとまたやり直せるよ。お兄さんはそういう愛の引力を信じてるからさ」 「引力、ですか…」 クサい言い回しですね。日本はそう思うが、己の美徳に沿って発言は慎む。 「そう。障害があっても、引き合うんだよ。必ずね」 フランスが歌うように言う。しかし日本はそんな箴言めいた言葉は信じられなかった。もしそんな大きな力が存在するなら、この何十年かの間に、とっくに引き合っていただろう。 最初にイギリスから寄せられる気持ちに日本が気づいて、それから自分の中に同様にこみ上げる何か特別な感情を覚えても、これまでふたりの仲が友情以上の領域に格上げされるようなことは起きなかった。 それは、二人の間にゆるやかに引かれた線のようなものだった。いつ越えてもいいし、越えなくてもいい。その線をイギリスが何度も越えたがっているのには気づいていたけれども、日本は知らないふりをしていた。男二人でがそんな関係になったところでどうしたらいいのかという迷いもあったし、その気になればいつでも超えられるだろうから今でなくていいと先延ばしにしていた部分もあった。 日本にとっては急いて関係を確かにすることよりも、ただ、イギリスから寄せられるわかりにくい優しさ、彼の赤く染まった頬、緊張に比例して荒くなる言葉遣い。そんな些末なものを感じるほうが楽しかった。だから、彼の気持ちに応えなかった。たとえ、イギリスが何かの形を欲しがっていても。 しかし、こうしてイギリスが記憶をなくしたことで、結果的にすべてがスタート地点、いや、それよりマイナスに戻ってしまった。いつでも越えられると思っていたふたりのあいだの線は消えた。ここに引力なんて何も存在しない。引き合わなかったからこそ、こうなったのだろう。 フランスはそれから日本に「じゃあ俺明日ひとりで行くから、帰ったらイギリスの様子を教えてあげるよ」と約束し、電話を切った。日本は受話器を置くと、深いため息をついた。そして廊下の冷たい床に座り込み、誰にともなく「昨日、ですか」とつぶやいた。 n e x t |