約束通り、翌日の夜にフランスから電話がかかって来た。挨拶もそこそこに、イギリスさんはどうでしたか、と日本が訊くと、フランスは
「体は平気そうだったよ。まあ記憶はなかったけどねぇ」
と、いつもの調子で答えた。
「やはり、フランスさんのことも、覚えてらっしゃらなかったんですか」
「そりゃ、記憶喪失だからね。もう本人も自分が記憶喪失だってことは把握してるみたいだから、別に面倒なこともなかったよ。思い出すきっかけにはなるかもしれないからさ、会ってやったほうがいいと思うよ。日本も行ってやりなよ」
 そうですね、と日本の口は提案に対して機械的に同意する。そのあとの「あ、個室だから人目気にせずにあいつと好きなことできるよ」というフランスからの提言は華麗にスルーして、それからすこし世間話をして、話を終えた。とりあえず話の流れで「そうですね」と返事はしたものの、日本はとうていイギリスに会えるような気がしなかった。会わなければならない、という義務感は募るが、イギリスはもう自分が急に訪ねたところで、以前のようには照れないだろう。照れ隠しの反動で言葉がキツくなることもないし、それを気に病んで後から妙に優しくなることもない。今のイギリスにはアメリカがいて、世話をしてやっている。だったらもう、自分の出る幕など無く、行ったところで見知らぬ東洋人の訪問に怪訝な顔をされて、気まずくなって帰ってくる。そんなことは容易に想像がついた。
 これまで相手から寄せられる思いに対して気づかないふりを散々してきたというのに、いざ自分の思いを踏みにじられそうになったらこれだ。記憶喪失という緊急の事態であるというのに、怖くて向き合えない。ずいぶん自分勝手ですね、と考えて日本は力なく笑った。

 日本は翌日も病院には行かなかった。代わりに、家の廊下を雑巾で隅々まで掃除して、花瓶と置物のほこりをすべて払った。それから、書庫の棚に著者別にずらりとおさまった蔵書を一度すべて取り出して、出版社別に並べ変え、今度は背表紙の色がグラデーションになるように並べ、最終的にはまた著者別に戻した。ときどき英国を舞台とした作品を手にすると心臓が跳ね、そのたびに本棚の奥に隠すように押し戻した。
 結局、一心不乱に何かの作業に没頭したところで、根本的な悩みが解決しないかぎり、気持ちは落ち着かない。ぴかぴかに磨き上げられた縁側に座って、日本が悟ったのはそんな単純なことだった。しかし行くべき場所はわかっていても、それでも脚が向かない。「お前誰だ?」だなんて、イギリスにそんなことを言われて立ち直れる自信がない。

 そんなことをしているうちに二日が経つと、ふたたびフランスから電話がかかってきた。なんとなく相手がわかった時点で電話の用件が読めた日本は、つい、開口一番「ああ、フランスさんですか、すみません」と謝ってしまった。その謝罪にフランスも何か察したようで、それに続けて「日本まだ見舞い行ってやってないでしょ〜。行ってやってよ」と返す。フランスの声は責めるようなものでなく、むしろ急に謝った日本を、おもしろがっているようだった。
 日本が「なかなか忙しくて時間が作れず、申し訳ありません」と答えると、フランスが「いいよ、忙しいなら仕方ないよ」と優しく言ったので、実際には取り憑かれたように家の掃除しかしていなかった日本の良心は痛んだ。そして、そこにフランスが要求を持ち出してきた。
「でも、明日さ、アメリカが仕事あって病院行ってやれないみたいだからさ、日本が行ってくれるとありがたいんだけど。記憶もないのに病院の個室で一日中ひとりってかわいそうじゃない? 暇してるみたいだし」
 そうやって具体的な事情を出されると、弱い。
「……わかりました、明日お伺いします」
 そう約束して、受話器を置くと、日本は深いため息をついた。正直なところ、会うのは怖い、とまだ心は拒否している。それでも頭は、必ず会わなければならないのだ、現実を見なければならないのだ、もう彼が、自分を特別扱いしてくれていたころの彼ではないことを身をもって知らなければならないのだ、ということを覚悟していた。



 翌日の午後、フランスから聞いた、イギリスが入院してるという病室の前に立ち、日本は深呼吸をする。見舞いに行くことを前日フランスと約束してからずっと、家からここまでの道のりもずっと、記憶をなくしたイギリスに会ったら何を言ったらいいのか、日本は考えていた。しかし何一つ思い浮かばない。きれいに整頓された本棚から記憶喪失を題材とした漫画を探して読んだけれども、どれもギャグ方向かお涙頂戴に持っていくようなものばかりで、「英国人の友人が記憶をなくした場合における、優しく明るくさわやかで、かつ失礼にならない、適切な対応例」らしきものは、ひとつも見つからなかった。とりあえず会えばどうにかなるだろう、と日本は疲れた頭で精一杯前向きに考えた。
 鼓動がうるさい胸を押さえて、病室の扉を二回ノックするが、応えはない。さらに三回叩く。しかし、やはり応えはない。まだ午後二時ではあるが、寝ているのだろうか、と日本は考えた。寝ているならむしろ好都合かもしれない、こっそりお見舞いを置いて、記憶がある頃と変わっていないだろう寝顔をすこしのぞいて帰ればいいのだから。日本は深呼吸をすると、「失礼します」と言って、ゆっくり扉を開けた。

 入室前の予想に反して、イギリスはしっかり起きていた。ベッドの上で上半身を起こし、厚い革表紙の本を膝に乗せ、ページを繰っている。ドアを開いた日本に気づくとイギリスは顔を上げ、いつもと変わらない緑色の瞳で、日本を見つめた。レースのカーテン越しに差し込んだ淡い陽光が、金色の髪を輝かせている。殺風景な白い部屋。消毒薬の匂い。頭に痛々しく巻かれた包帯。そして、どこかいつもと違う表情、どこかいつもと違う反応。そんなことはいくらでも想定していたものの、実際に目にする衝撃は想像をはるかに超えたものだった。
 日本が自分の考えに気をとられてその場に立ち尽くしていると、ベッドに座っている男、つまりはイギリスが、
「おまえは…?」
と、これまでと変わらない声で訊いた。日本はその声で我にかえり、慌ててドアを閉めると、一礼した。
「……ご挨拶が遅れて申し訳ありません、私はイギリスさんによくしていただきました、日本と申します」
「そうか」
 静かにそう言うと、イギリスは手にしていた革張りの本を閉じた。ああ、フランスさんの、嘘つき。日本は心の中でお調子者を責める。「日本を見たら瞬時にすべて思い出すかも」だなんて、よく言ったものだ。そうだ、これくらいで記憶が戻るはずはない。そんな奇跡は起きるはずがない。別に信じていたわけではないが、それでもイギリスに会えばどうにかなるのではないかと心の片隅で期待していた自分がいたことに、日本は気づいた。
 イギリスはベッドサイドに本を置くと、あらためて日本に向き直り、懸命に記憶を探り出しているかのように眉をしかめながら、顔をじっと見てきた。重い沈黙が部屋を支配する。そのあからさまな視線に照れて、日本は窓の方を見遣った。目線を会わせるのは苦手だ。イギリスだって記憶をなくす以前はそこまで不躾に見てくるタイプではなかったはずなので、余計に居心地が悪い。どうにかして気を逸らしたいが、かといって、記憶がない人物と何を話せばいいのかも、やはり、わからない。聞かれてもいないのに自分のことを語るのも自意識過剰な気がするし、かといってイギリスに体の具合、記憶、入院生活、もはや何を尋ねても失礼にあたりそうな気がしてくる。どうしたらいいのかと考えあぐねたそのとき、日本は自分が手に持った紙袋の存在を思い出した。そして、これで助かったというような勢いで、
「あの、こちら、お見舞いです!お気に召せばいいのですけど」
と丁寧に包装された見舞い品をイギリスに差し出した。イギリスは、一拍置いてから「…ああ」とうなずいて、受け取る。包装紙をはがすと、中からは本が出てきた。
「これは……?」
「……ええと、英語で書かれた日英史の本です」
 イギリスがぽかんとした表情で日本を見上げてくるので、日本は自分が渡したものが急にひどく恥ずかしくなった。しかし、前もって病院に電話で確認したら、この病院は生花は持ち込み禁止というし、食物は入院食の他に食べられるのかわからなかったから、仕方なくこうなったのだ。入院生活は暇だろうと思ったし、ちょうど本棚の整理をして懐かしいものを見つけたところだったから。この本を選んだことにとりたてて深い意味など無い。しかしこのリアクションは、ひょっとして、自分のことを特別早く思い出してほしいと急かすようなメッセージにとられたかもしれない。そうだとしたら、いたたまれなすぎる。どうしてもっと無難な、適当な小説や漫画にしなかったのだろう。穴があったらはいりたい。むしろ今自分で掘ってしまいたい。リノリウムの床をじっと見つめて、日本は頬に血が上っていくのを感じた。
「……す、すみません!そうですよね、今、他にお読みの本がおありですし、他の物がよかったですよね、こんな、小難しそうな本は…」
「いや、これでいい。これがいい。ありがとう」
 本を取り返すような素振りをすると、イギリスがその手を遮って大事そうに両腕で抱え込んだので、日本はやむなく諦めた。自己嫌悪と羞恥の渦からはなかなか出られそうにないが。
 イギリスは本を開いて、古い写真を珍しそうに眺め始めた。日本はベッドの横に立って黙って彼を見下ろす。そうやって見るイギリスは記憶を失う以前と何ら変化がないように思えたが、先ほど彼が発した「ありがとう」という素直な感謝は、そのまま文字通りに受け取るよりも、彼が記憶をなくす以前の口べたな彼とは違うという事実を、日本にさらに強く刻み込んだ。そんな些細な違いを探してどうなるわけでもなかったが、そんなことをいちいち気に病んでしまう自分を、日本は否めなかった。

 イギリスはパラパラとページをめくったあと、日本のほうに向き直り「もしよかったら、お前のことを、それだけじゃなくて俺とお前のこと、教えてくれないか」と言った。このまま沈黙が続くのは困ると思っていた日本は、話す内容が指定されたことに安堵した。
「…ええ、もちろんです」
「座れよ」
 そう言われてベッドサイドに置かれたパイプ椅子に座ろうとしたところ、イギリスがシーツの上の空いているスペースを叩いたので、迷ったが、黙ってそこに座った。そして、イギリスから問われるままに、開国後の、自分の歴史の中では随分と短いがイギリスと会ってからの歴史について、すこしずつ話していった。
 午後の陽光が射す部屋は暖かく、会話の切れ間の沈黙には、廊下や隣の病室から、時折くぐもった話し声や子供の笑い声が聞こえる。彼の頭の包帯と、ここが病室であることを除けば、これまでと変わらないような、穏やかな、穏やかな時間だ。話していくうちに、日本は次第に自分の中の緊張がほどけていくのを感じた。

 ふと気づくと一時間近くが経っており、見舞いで長居はいけないと思った日本は立ち上がって「そろそろおいとまします」と告げた。するとイギリスは「なんだ、もう帰るのか?」と不満げに返した。
「お体に触るといけませんので、長居はできません」
「別に記憶以外は何も問題ない。ただ経過観察と検査で入院してるだけだ」
「……また来ますから」
「いつだ?」
 すぐ投げられたその質問に、日本は思わず笑った。
「イギリスさんさえご迷惑でなければ、時間の許すかぎりいつでも参りますよ」
「ほんとか」
 両眼が少年のようにきらめく。ええ、本当ですよ、と日本が返すと「じゃあ明日も来てくれないか」とイギリスは言い、最後に「……なんというか、おまえは、一緒にいると安心する」と、小声でつけたした。

 病院を出て、昼下がりの道を歩きながら、日本はさきほど彼とかわした言葉をひとつひとつ思い出した。「なんだ、もう帰るのか?……遅いし、泊まっていったらどうだ」「いえ、また来ますから」「いつだ?来週か?」似たようなそんな問答が、以前にもあった。
 それは、なんだか今となってはずいぶん昔のようにも思えてきたが、思い返せば、つい数週間前のことだった。イギリスが二人のあいだの線を越えようとしていたのに、日本が気づいていないふりばかりしていた、そのときのことだった。




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