「ちゃんとお見舞い行った?どうだった?」
その夜、早速フランスから電話がかかってきた。
「行きましたよ」
「おー、偉い偉い。あいつ、どうだった?日本のこと、思い出したりとかした?」
「いえ、何も変わりませんでしたよ。そもそも私が行ったくらいで変わるはずがないじゃないですか」
 それに対してフランスが、いやいや、日本も愛の奇跡を信じなきゃだめだよ、とまじめに説くので、日本は苦笑した。
「それにしても、なんだか、同じイギリスさんでも、別人みたいで不思議ですよね」
「そうだった?いつもと印象違った?」
「そうですね…どこが違うとはうまく言えませんが、やっぱり違いますよ」
 素直に感謝するところが違う、自分を見て照れないところが違う、などと正直には言えないので、日本は適当にごまかした。
「イギリスさん、いつか治るんでしょうか」
「どうだろうね。病気のことはわかんないな。でもまあ日本はひとまずこのまま、また仲良くなっちゃえばいいんじゃない?」
「記憶をなくしたイギリスさんとですか?」
「うん」
「それは……無理ですよ」
「えーどうして」
「だって……記憶がないじゃありませんか」
「でもイギリスはイギリスだからさ」
 たしかにフランスの言う通りだった。でも実際は全然違うのだ、と日本は思った。

 約束通り、日本は翌日も病院を訪ねた。イギリスは昨日とは違い、笑顔で日本を迎える。一日だけだが、頭の包帯も取れており、顔色も良くなったように見えた。
「明後日退院することになった」
「よかったですね」
「ああ。……日本、俺が退院しても、会ってくれるか?」
 そう言って照れくさそうにイギリスは下を向いた。日本は驚いたが、「はい、もちろんですよ」と返事をした。それまで、言葉遣いが若干丁寧だったり、感情の波がそれほど激しくなかったり、記憶なくす以前の彼と多くの違いがあることには日本は気づいていたが、記憶のない彼が、こうして以前と同じように照れるのを見るは妙なものだった。そのときフランスが電話で語った「障害があっても、引き合うんだよ。必ずね」という言葉がふと頭に浮かんだが、日本は慌ててそれを打ち消した。


 退院後、日本はイギリスの希望通り、家まで会いに行くことになった。イギリスの家に行くのは久しぶりだった。最初はイギリスが日本の家に行くと主張していたが、もちろん家までの道順を覚えていないため途中で迷子になられても困ると思い、日本はイギリスの体調を心配するような文句を並べて遠回しに断った。その代わりに、自分から訪ねに行くと約束したのだ。
 イギリスは記憶がなくても、家の中ではあまり不自由なく暮らしているようだった。ものの置き場所も、だいたい勘でわかるらしい。紅茶の味も、以前と変わらない。それを告げると、体が覚えてんのかもな、と彼は言った。
 紅茶を片手に彼と話すのは、アメリカや(今も心配して頻繁にイギリス宅を訪れに来るようだった)フランス(驚くことにフランスの話をするときの口調に毒が含まれていない)についてのときもあったが、たいていはイギリスに乞われて日本が昔の思い出話をした。そんなとき日本が渡した日英史の本は、たびたび役に立った。イギリスは写真を指さして、これは何だ、何をしてるところだ、手に持ってるのは何だ、と細かいところまでいろいろ聞いてくる。
 歴史と言えど、暗い戦時中の話題は避けて、戦後の混乱の時期もなるべく避ける。そうしていると二人の距離がいちばん近かった頃、戦前の同盟中の話が自然と多くなった。日本はそのときを懐かしく思い返しながら、問われるがままに話した。写真を見ながら話していると、忘れかけていたその頃の記憶は日本のなかで次々とよみがえる。イギリスがいった些細な一言。教えてもらった技術。初めて食べた料理。

 そうやって何回かイギリスの家を訪ね、一週間ほどが過ぎたある時、また本に載っている写真について日本が話している間、ふと横を見るとイギリスがページではなく、日本の横顔をじっと見ていることに気がついた。自分ばかりが思い出して話を進めてることにイギリスが気を悪くしたのかと一瞬思って日本は話をやめたが、どうも、イギリスの目線はもっと妙な雰囲気だった。これはなんだかおかしい、と日本は直感的に思う。イギリスが椅子を動かして、すこし側に寄ってきた。わずかな移動だったが、日本にはやたらと近く感じられて、緊張が走った。
「あのさ……気になったんだけど、俺とおまえって、最近はどんな関係だったんだ?」
 イギリスが発した言葉に、日本は後頭部を殴られたような衝撃を受けたが、冷静を装って聞き返す。
「最近、と言いますと……」
「だから、こういう昔の同盟中とかじゃなくて、現代。俺が記憶をなくす前だよ。俺とおまえの関係は、どうだったんだ?」
「どうって……」
 見透かすような色の眼に、日本は何もかも打ち明けてしまいたくなった。イギリスさん、あなたが記憶をなくす前、あなたは私が好きで、私もあなたが好きでした。しかし私はあなたの思いに知らないふりばかりしていました。あなたが記憶をなくす、その日にも。
 喉の奥にこみあげる感情を堪えて、日本は何事でもないかのように一言、
「お友達でしたよ」
と答えた。イギリスはふたたびページに目を落とすと
「そうか」
と言い、それ以上なにも聞かなかった。


 イギリス記憶喪失の報を受けて二週間が経とうとしていた日、フランスが連絡もなしに突然、日本の家を訪れた。庭で植木に水をやっていた日本は、急に柵の向こうから声をかけてきたフランスに驚いたが、そのまま客間に通した。
「イギリスとは、どう?うまくやってる?」
 フランスは座布団に腰を下ろして落ち着くと、遠慮もなく、想定通りの質問をしてきた。
「……気のせいかもしれませんが、順調にイギリスさんから好かれてしまっている気がします」
「えっ、よかったじゃん。やっぱり運命の二人は引かれ合うんだな〜。いや〜愛ってすごい」
 フランスは湯のみを片手に、舞台のセリフを読み上げるような調子で言う。
「でも、記憶を失っているのに、イギリスさんに以前と同じ感情を抱いてもらうというのも、おかしい気がしますが」
「まあ、そのへんはきっと人知を超えた何かがあるんだよ」
「そうなんでしょうか……でも、もう、なるべくイギリスさんの家には行かないようにしようかと思いまして」
「えっ、なんで!?」
 フランスは本当に驚いたのか、いつもの余裕はどこへ、身を乗り出して聞いてきた。
「なぜと言いますと……私はイギリスさんの記憶について責任を取るべきだと思ったからです」
「責任?」
「退院したばかりのイギリスさんにこんな話をするのはよくないと思って、黙っていたんですけれど」日本は目を細めて言った。「フランスさんは何かと心配してくださるので、今正直に申し上げたほうがよいかもしれません。イギリスさんが記憶をなくした日のことを、お話ししましょうか?」




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