アメリカから聞いた番号の病室の前で、フランスは「いつもは喧嘩ばっかりしてっけど、あいつだってさすがに記憶がないんだから心細いよな、こういうときくらい、優しくしてやらないとな。ついでに、いろいろつけこめるかもしれないし…」としみじみ考えた。そしてドアを開けたフランスは、「やー、元気?俺のこと覚えてる?」と、病人にめいっぱい明るく声をかけた。 イギリスはベッドの上に寝そべって、遠目に見る限りにもあまり教育上よろしくないグラビア誌(いったいどこから入手したんだろうか?)を退屈そうに眺めていた。そして部屋に飛び込んできたフランスを目にするなり、その特徴的な眉をしかめ、低い声で 「はっ? 誰、おまえ。勝手に入ってくんなよ。出てけ」 と言い放ち、視線をグラビアに戻して、ページをめくった。そして、そう言われたフランスは、長年の慣れでつい「ははは、このファンタジー眉毛野郎め〜」と、イギリスの頭に向けてワインボトルを振っていた。 やるつもりはなかった。ただの数百年来の殴り合い関係の延長で、条件反射が出てしまっただけだ。仕方ない。あたりいちめんに飛び散ったワインと、ベッドからずり落ちて床にのびるイギリスを見て、「やべえな…病人相手にやっちゃった…とりあえずナースコールだけ押して逃げよう」とフランスは即座に決めた。しかし、次の瞬間飛び起きたイギリスから「何すんだフランスこのワイン野郎!」と足にしがみつかれ、「え?ちょっと、何?俺の名前覚えてんの?」と訊く間もなくフランスは床に引き倒され、馬乗りになったイギリスに顔を三発殴られたところで、たまたま外を通りかかって物音と悲鳴を聞き付けた医師が慌てて止めに入った。 二人は厳重な注意を受け、イギリスは打ち所が打ち所なので、また検査を受けに行った。フランスは別室で顔の傷の手当をされたが、ナースがなかなかの美人ぞろいだったので「見舞いに来てよかったな」とのんびり思った。 その後、ナース達との世間話が盛り上がりすぎてふたたび医師から注意を受けた上(もうすこしで電話番号が聞けるところだったのだが)、イギリスとの再度の面談を許されたフランスに医師が告げたのは、「医者としては不本意ではありますが、先程の患者の頭部へのあなたの一撃で、記憶が戻ったようです」という事実だった。ただし、「しかし、本人はどうやら混乱が大きいようなので、もうしばらく様子見ということで検査入院させようかと思います」という注意付きで。 フランスがふたたび病室に入ると、イギリスは頭まですっぽり布団を被っていた。その拗ねたような、それでも誰かの気を引きたがっているような格好に、フランスはなんとなく、イギリスが小さかった頃を思い出した。 ベッドサイドに置かれたパイプ椅子に脚を組んで座り、フランスは目の前の布団の山に語りかける。 「記憶戻ったんだってね」 「……普通、病人をワインボトルで殴るかよ」 布団の山の中から、こもった声が返ってくる。 「まあ、結果的にはよかったじゃん。俺に感謝してよ」 「……よくねーよ」 「なんで。なんか不満なの」 「思い出したくないことまで思い出した」 「え、何?」 イギリスはそれには答えず、「あああああ」とうめきながら、布団をかぶったままもぞもぞと動いた。ドクターが言ってた『混乱が大きい』ってこの状態のことか、とフランスは思う。 「……まあ言いたくないなら別にいいけど」 フランスはベッドサイドに置いてあった、さっきイギリスが読んでいたグラビア誌を取り上げ、パラパラとめくった。遺跡。砂漠。公園。バスルーム。キッチン。あらゆる奇妙な場所で唐突にポーズをとる裸の美女たち。病院ですらこんなのを読んでたことといい、俺に対する態度といい、記憶がなくなっても人間って根本的なとこは変わんないんだなぁ、きっと料理も駄目だし幻覚も見えるんだろうなぁ、とフランスは人類の神秘にちょっとだけ感動した。自分の一発で記憶が戻ってしまったとはいえ、ほんとうはもっと記憶のないイギリスと会ってみたかった、そうしたらおもしろそうだったのに、というのが本音だった。 フランスがしばらく黙ってそのグラビア誌を眺め、誰が一番好みか決めかねていると、イギリスが布団からわずかに頭を出して「俺さ…」と語りだした。結局、誰かに聞いてほしいらしい。 「俺さ、あの、記憶なくした日……ってまだ一昨日か? 日本と俺の家で会う約束しててさ…」 「そうだったの?」 フランスが電話で日本に記憶喪失を告げたとき、日本はそんなことひとことも言ってなかったはずだ。 「ていうか、その前に手紙出してて……OKだったら来てくれ、みたいな」 何がOKだったか、というのはアメリカだったら「いったい何のことだい?」などとしつこく聞いたかもしれないが、フランスには聞かなくても直感でわかった。そして日本がフランスに何も言わなかった理由も、同時に納得できた。 「それで、日本が来たら食わそうと思ってスコーン焼いてたら、キッチンの窓から、玄関に立ってる日本が見えて」 「うん」 自作のスコーン食わそうとするって、どうしてお前はいつもそういう余計なことするの、そういうことで駄目になるんでしょ、とフランスは注意したくなったが、とりあえずこの場は話の流れを止めないように、ただうなずくだけで済ませた。 「来てくれてすっげえ嬉しかったんだけど、ドアの前で立ったままでなかなかベルも押さないし、どうかしたのかと思って見てたら、あいつ、そのまま帰ろうとして」 「えっ」 「慌てて追いかけようとしたら……すべって転んでオーブンの鉄板に頭打った」 「それは…」 「俺はそういうつもりで呼び出してて」 「うん」 別にスコーンで転んだわけじゃなかったんだ、と確かめそうになったフランスだったが、真面目な話が続きそうなのでおとなしくうなずくだけにしておいた。 「玄関まで来たとしても、迷って何も言わずに帰ったってことはさ」 「あー…」 「ダメってことなんだよな」 「うーん」 少なからずとも日本にもイギリスに対しての思いがあるだろうと読んでいたフランスには、ダメと言い切るには腑に落ちないものがある。 「普通あそこまで来て帰るかよ……」 日本ってほんとに何考えてんだかわかんねぇ、とイギリスはうめきながら、ふたたび布団の奥に潜って行った。医者には悪いが、こんなのは後遺症でもなんでもなくて、ただ記憶喪失前にかかっていた恋の病が再発しただけだ。こんなやつは病院に置いとくだけで病室の無駄使いだろ、とフランスは思った。 「でも、ひょっとしたら、忘れ物しただけとかかもしれないじゃん。聞いてみたら?」 「……『なんで帰ったのか』って聞くのか?そんなん、答えがOKじゃなかったからに決まってんだろ。そんなこと、聞けるかよ!ああ、もう、次どんな顔して会えっていうんだよ。いっそ忘れたままのほうがマシだった。そしたら、もう一回新しく日本とやり直せたかもしれないのに」 無茶なことを言うなぁ、さすがはファンタジー脳だ、とフランスが思っていると、急にイギリスががばっと布団から這い出てきた。 「そうだよ!まだしばらく記憶が戻らないふりすればいいんじゃねえか」 「へ?!なに言ってんの?」 「まだ記憶がないことにすれば、日本とも何もなかったことにできるだろ」 「記憶がないふりするってこと?やめとけよ、絶対バレるから」 「バレねぇよ。それに、せいぜい二週間とかそのくらいにするつもりだし」 「二週間って…お兄さんはじゅうぶん長いと思うんだけど。どうすんの?」 「だから、二週間以内に、記憶がなくなった新バージョンの俺で日本とうまくいきゃいいわけだろ。それから記憶が戻ったことにする」 イギリスはうきうきとして、医者って口止めできんのかな、などとつぶやいている。 「待てよ、そんな理由で医者口止めして二週間も演技するわけ?」 「べ、別に、それだけじゃねぇよ!……あと、ア、アメリカが俺に優しいんだよ……」 「は?」 日本とやり直すにはもっといい方法があるんじゃないの、素直に話し合ったほうがいいんじゃないの、と言おうとしたフランスは急に出てきた他国の名前に混乱した。 「だから、アメリカが何百年ぶりに俺に優しいんだよ! 俺を忘れるなんて許さないんだぞ!とか言ってきて…昨日も、昔の写真見せて、これ覚えてるかい?とかいろいろまじめに聞いてくんだ。いつものアメリカからは信じらんねぇだろ? 記憶がないときは、ただ、親切なやつだなぁ、とか思ってたけど、今思い返すと、アメリカがあんなふうに俺に接してくれるなんて、やばい。やっぱりあいつは昔も今も天使だ」 話しているうちに何かこみ上げるものがあったのか、イギリスはすっかり涙声になってきた。 「でもあいつのことだから、絶対、俺の記憶が戻ったらまた冷たくなるし…。せめてもうちょっとこの状況を味わったっていいだろ」 そう言いながら、イギリスは「あああアメリカ…」とうめいて、また布団に顔を埋めた。これもただのイギリスの昔からの不治の病だ。残念ながら治療法は数世紀かけても未だに見つかっていない。お兄さんつきあいきれないからもう帰ろうかな…などとフランスが考えていると、イギリスは突然起き上がり、びしっとフランスに向かって人差し指をさして宣言した。 「よし、じゃあ、今日から二週間後に、日本とのキスで愛の奇跡が起きて記憶が戻ったことにするから、それまでおまえ俺の記憶が戻ったこと誰にも言うなよ。アメリカと日本には、死んでも言うなよ」 「いや、でもお前、今まで何年かけてもキスすら無理だったんだから、二週間やそこらで急展開できるわけないでしょ」 「いや、新生クール・ブリタニアが全力だせば不可能はない」 「えー…」 こいつ、頭打っておかしくなったか?ここでナースコールすべきか?とフランスはむしろ心配になってくる。 「キスで記憶が戻るとかちょっと寒くない?どこまでファンタジーつらぬく気なの」 「お前のワインボトルで記憶が戻ったって言うより100万倍はマシだろ」 まあ、それはそうかもね、とフランスも思った。 「そうと決めたら、準備しとかないとな。日本はいつ見舞いに来んだろ?やっぱ記憶喪失後の第一印象って大事だよな。いっそのこと一目惚れされるくらいにしないと…。イメージ的に日本って包帯とか好きそうだよな? ナースに言って、この絆創膏、包帯に変えてもらうかな。あ、フランス、ちょうどいいや、お前さ、前髪のここちょっと切ってくんねぇ?なんか変なクセが出んだよ」 イギリスは鏡を見て、妙な策略を練り始めた。布団にこもったままよりはマシかと思ったが、急にひとりで盛り上がり始めたイギリスになんだか納得いかないものがあり、フランスは散髪の依頼には答えず、話を遮った。 「あー、そういや俺、きのう、日本にお前の見舞いに行かないかって誘ったけど、やんわり断られたよ」 「………」 イギリスの顔色が変わる。 「……いや、別にお前に会いたくないからとかじゃなくて、記憶なくしたお前に会うのがつらい、記憶がなかったらもう好きになってもらえるか自信ない〜、みたいな感じだったとは思うけど!」 なに微妙に脚色してんだろ俺…、と思いつつも、フランスは自分の言葉で予想以上に急速に色を失ったイギリスに対して、何かフォローをせずにはいられなかった。 「そ、そうだよな。日本は優しいからな…。それに、このクソ髭と一緒に見舞いに来るってのが嫌だったんだよな、きっと。……でも、念のため、今のうちに会っとかないと俺もうすぐ死ぬかもしれないとかいう噂も流すか……」 「いや、待て!これ以上嘘つくのはやばいだろ。俺、今日も帰ったら日本に電話するつもりだったし、ついでに早く見舞いに来るように言っておいてやるよ」 「今日も電話って…俺が記憶なくしてる間に、まさかお前、日本のこと狙ってんじゃねえだろうな…」 お前ねぇ、ちょっとは俺に素直に感謝してよ!お兄さん、悲しくなっちゃうよ!と、フランスはため息をついて、丸めたグラビア誌でイギリスの足を叩いた。今だけは、頭への攻撃は、勘弁してやったのだ。 n e x t |