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イギリスさんが「入れよ」と小さくつぶやき、私は言われた通りに扉の内側へ歩みを進めました。すぐ前にイギリスさんが仁王立ちしているため身動きができない狭いスペースで、どうにか身をよじって後ろ手にドアを閉めると、一気に周囲の温度が上昇したような気がします。 目の前に立ったイギリスさんは、なかなか動きません。先ほどよりもすこしぼんやりとした、焦点の定まらない目のイギリスさん。近付くとやっぱりアルコールの匂いがして、歩いて余計に酔いが回ったのかなと思いました。 ちょうど私の顔の前にくる、彼の首のあたりを見ると、先ほど外されたボタンはどういうわけか幸いまたとめられていましたが、さっきの誘うような様子を思い出してふたたび頬に血が昇るのを感じました。 このやたら近い距離といい、黙ったままのイギリスさんといい、まさか、そういうことが目的で戻ってきたんだ、と思われていたらどうしましょう。さっきちゃんと私、ドア越しに説明しましたのに。違うんです、私は、なんとなく気がかりになって、なあなあなままで逃げちゃいけないと思って、戻ってきたら扉の向こうで自分の名前が呼ばれていたから、返事をしてしまっただけで。けして、そんなことをしに戻ってきたんじゃあないんです。 重くのしかかる沈黙に耐えられなくなり、私は何を言ったらいいのかもわからないまま、とりあえずこの変な空気をどうにかしたいと思って「あ、あの!」と声をあげました。緊張していたせいか、変に裏返ってしまいましたけど。 「うん?」 「えと…大丈夫ですか?」 「なにがだよ」 「大丈夫ならいいんですけど、こうしてここに立っていても…その」 「…そうだな」 イギリスさんがパッと私から距離をとって、廊下の電気をバシバシとつけながら奥に歩いて行ったので、私もあとからついて行きました。イギリスさんの家はここ最近何度か訪れているのでよく見知ったものですけど、こうして夜に見るとまた普段とは違った雰囲気があります。怖い、とまでは言いませんけど、古い建物ですから暗闇に妙な迫力があります。 前を歩いていたイギリスさんが、「あ、そうだ俺、先に手を…お前、そのへん座ってろ」と言うので、私は先にひとりでリビングに案内されました。最近彼の家を訪ねるときの定位置になりつつあった一人掛けのソファになんとなく座ろうとしたそのとき、「あっ、おい待てっ」と後ろから声を掛けられたので、「なんですか?」とふりかえったところ、次の瞬間、私のすぐ横をビュッと何かが飛んでいきました。 何かが飛んで行ったその方向を見遣ると、つい一瞬前まで何も異変はなかったはずの一人掛けの高級そうなソファの布地に、ぐっさりと何かが突き刺さっていまして。よく見るとそれは、古めかしい草花の模様の彫りこまれた、裁ちばさみでした。驚いて再びイギリスさんを振り返ると、明らかに今サイドボード上に置いてあった裁縫道具一式から、何か取り出して投げたらしい格好です。…どう見ても、今、投げましたよね?私に向かって、これ投げましたよね? 「いや、その…悪い、そこの席は今、ほら、使えないんだ」 ここは照れるタイミングじゃないと思うんですけど、イギリスさんは妙に照れながら、そう言いました。 「……ああ、そうでしたか。すみません」 そうですね。どう見てもこのソファは今は使えないですよね。ハサミが刺さってますもんね。ははは。私もそれ以上深く聞くのはやめ、私が3人掛けのソファの端におとなしく座ったのを確認すると、イギリスさんは黙ってキッチンのほうへ行きました。深々と刺さった裁ちばさみを見ると、やっぱりあのまま帰ればよかったかもしれない、とすこしだけ思いました。 100歩譲っておそろしく前向きに考えると、今のは私に対して「一人掛けに座るな」というアピールだったんでしょうか。彼なりのデレなんでしょうか。いや、それにしても、裁ちばさみって。あれがあんな勢いで刺さったら、ちょっと…ソファじゃなくたって、私そのものだって、使えなくなりますよ。 キッチンから届くばしゃばしゃという水音を聞きながら、ソファの背もたれに寄りかかり、まぶたを閉じると、少し気が抜けたのか、眠くなってきました。呼び出された時ですとか、イギリスさんと歩いているときは、緊張してそれどころじゃなかったんですが。やっぱり年寄りに夜更かし(もはや徹夜の域ですが)は厳しいです。 ええ、私だっていろいろ考えたんですとも。 どうしたらいいのか、ですとか、どう思われているのか、ですとか。距離がわからなくなって、遠ざかるのも、近づくのも怖くなって、嫌われたとか、むしろ嫌われてすらいない、なんとも思われていないのかとか、いろいろ考えるうちに動けなくなって。 最近は、このままじゃいけない、何かを変えなきゃと焦っているうちに、なんだかおかしい方向へ行ってしまいました。今まで一度も気にしたことなかった、ジャンプの最後のページの広告の「着るだけで背が伸びる!姿勢矯正ベルト」だとかについ目がいってしまったり。コンビニで「Tarzan」を手に取ってしまったり。別に私の腹筋が6つに割れたところで、何もイギリスさんからの評価が変わるわけでもないんでしょうけどね。 そんなときアメリカさんと世間話をしていたら「わかった!日本もチェンジの時代なんだね!」と言って、よくわからない新しいエキスパンダーを買わされました。ちょっと使っただけで背中が筋肉痛になって翌日ろくに動けなかったので、もうタンスの肥やしにすることにしましたけど。 そんな変化が問題ではないとはわかっています。でも何をしたらいいかわからないなら何でもするしか仕方ないじゃないですか。 さきほど、並んで歩いているときは、街燈が地面に落とす影でありありとわかる自分の体躯の小ささですとか、イギリスさんに気の利いた言葉ひとつも掛けられず黙って隣を歩くしかないことに、うんざりしてきました。ただでさえそんなコンプレックスで悶々としてるところに、彼からあっさりと「話もつまらない」だとか言われ、目の前が真っ暗になりましたよ。そりゃ、私は特におもしろいタイプではないですけれど。だからといって欧米諸国の華やかな方々に外見で勝てるタイプでもないですし。オタクですし。あと何気にけっこう借金もありますし…。なんだかもう、私って…。 そんな鬱思考が膨れ上がったから、今晩は早々に退散しようと思ったのに、そこでひきとめられて、イギリスさんは私の目の前でシャツのボタンをはずしながら、「もう今は俺も気持ちが変わった」「お前のことは嫌じゃないし」です。あの場で私に何をしろと言うんでしょうか。差し出された首筋に噛みついて「気持ちが変わったんなら私でもお相手できますね…フフ…」とでも言えばいいとでもいうんでしょうか。そんなのレディコミの優男じゃないんですから無理ですよ。たとえ意気地なしと罵られようとも。 キッチンからはなんだかまだイギリスさんがたてる水音が続いていて、私は、戻っては来たものの、このあとイギリスさんとどうしたらいいのかと思いはじめました。酔いがまわったのか先ほどからやたら視線が泳いで足元もふらついているイギリスさんをさっさと寝かせて、そっと帰るべきでしょうか。それとも何か、まだ彼がさびしいのなら、話でもしたらいいんでしょうか。だいたい、さびしいとか、そんなことフランスさん経由で知らされるっていう私のポジションはどうなんでしょう?そんなの最初から、私に直接言えばいいじゃないですか。どうせ散々振り回すなら、そういうときでもちゃんと私を振り回してくださいよ。結局、私のこと、大事なときには呼びもしないんですから。 それから、さっきの「お前のことは嫌じゃないし」はどれくらい本気なんでしょうか。嫌じゃないって、なんですかそれ。好きっていうほどではないってことですか?でも酔っ払って「そういう気分」の時なら、相手にしてやってもいいっていうレベルですか?いや、でも、相手ってどういう…。 ふとこのあいだフランスさんから「技術不足は愛情でカバーだよ(はぁと)」と一言添えて突然送られてきた「野郎同士の正しいやり方」の本を思い出しました。あああああ。あの本、目次と最初の4ページくらいは読みましたけどとても正気を保てそうになかったので途中でやめてしまいました。まったく、あのひと、何考えてるんでしょうね。技術不足とかいって、どうせイギリスさんが吹き込んだんでしょうけれども!ああ、もう。私、本来は、どこの誰よりも技術大国のはずなんですよ。いやそういう技術はこの場合関係ないとしましても… そのとき近くでドンと何かを置く音がして、慌てて目を開けました。いつの間にかリビングに戻ってきていたイギリスさんが、ボトルとグラス二つを目の前のテーブルの上に置いたところでした。ラベルにあるのは流麗な、バランタイン、17年、の文字です。 「ほら、飲めよ」 「…お酒じゃないですか」 「いいだろ」 すでにふらふらしているのに、これ以上飲む気なんでしょうか、このひと。しかもこんなに強いのを。 「イギリスさんはよくても、あの、私、お酒は」 「遠慮すんなよ」 私の意見は無視して、イギリスさんはボトルのふたを開けて、ふたつのグラスにどばどばとついでいきます。 「遠慮というわけではなく、すみませんが、私、今そういう気分では」 「ほら」 と言って強引に渡されたものを、私が断れるはずもなく。 「…では、すこし、いただきます」 まあ、そもそも私は彼に対する誠意的な意味合いで禁酒していたわけなので、当の本人がそこまで飲めというなら、断る道理もないわけですが。でも、だいたい、あまりウイスキーって得意じゃないんですよね。顔に近づけると、特有の強い芳香が眠たい頭を刺激します。私もかつては洋酒にあこがれましたけど、やっぱり大量に飲めそうなものではありませんね。 イギリスさんは自分のグラスをとると、ソファに私からひとり分のスペースを開けて座りました。今日はすこし離れて座るのかと思うと、安心したような(今日はむやみにくっついてからかったりしてはこないんですね)、どこか残念なような(くっついてこられないのもそれはそれで…)、ものすごく不安なような(くっついてこないってことは、私、さらに駄目なことを何かしたんでしょうか…)、複雑な気持ちです。さっき一人掛けソファを裁ちばさみで駄目にしたくらいだから、てっきり、またやたらひっついてきて、からかわれでもするのかと覚悟していたのですが。 琥珀色の液体を両手の中で揺らし、飲んでるようなそぶりをしながら、横に座るイギリスさんが何か言うのを待っていましたが、しばらくしても彼は黙ってグラスを傾けるだけです。部屋を覆う沈黙は苦しい類のものではありませんし、ただ黙っているのも私は好きなのですけど、ときおりイギリスさんから、ちらちらと強い視線を感じるのだけが気になります。見られてます。ひょっとして、ちゃんと飲んでるかチェックしてるんでしょうか。そんな、まさか。 「お前さ」 「は、はい?」 「…お前さ、今日、なんで来たんだよ」 この質問はさっきもフランスさんの家でされましたね。まあ、酔っぱらいだから同じ話を3回くらいするのは仕方ないですけど。 「それは、あの、フランスさんから電話をいただいたので」 「…それはもう聞いた。そうじゃなくて」 「ではなくて?」 意外なことに、さっきのやりとりも、どうやら彼は覚えているようでした。 「だから、フランスとか、もう、どうでもいいんだよ…俺はただ、お前がなんで…」 「あ、交通手段のことですか?」 私がそう聞きなおすと、イギリスさんは「もういい」と言ってテーブルにグラスをガツンと置き、ソファに深く座りなおしました。なにか、はずしたようです。よくわからないですけど、ものすごい今の答えははずしたみたいです、私。また背中に嫌な汗をかいてきました。でも「どうして来たのか」って、そんな、何を言えっていうんですか。 それともイギリスさんは私に来てほしかったわけでもないのにどうして来た、とかそういうことですか?勝手に心配して駆けつけたとか、家まで送るなんていちいち図々しいとか、調子に乗ってるとか、何様のつもりだ、そういう…薄暗い考えが思考を覆い始め、背筋がざわっとしました。 違うんです、私は、私は、ただ、あなたに会いたかったからです。あなたに会って話をして、あなたの力になれたら、あなたの態度を確かめたら、嫌われたとかそういうどんどん下降していく考えも払拭できるんじゃないかと思って。 何か言いたい、でも何を言おう、と困った挙句にふと顔を上げたら、いつの間にかイギリスさんは大きなクッションにもたれて、靴を履いたままの足をローテーブルに投げ出して、目を閉じていました。 「…イギリスさん?」 返事はありません。グラスを置いてソファから立ち上がり、近付いて顔を覗き込んでみてもやはり目は閉じたままで、どうやら、いつの間にか眠ってしまったようです。規則的な寝息を繰り返す彼を見下ろすと、今夜はなんだかいつもに増して様子がおかしいので、正直、寝てくださって、ホッとしました。このまま話がこじれたり、酔って変に絡まれたりするよりは、眠ったままの彼を見ているほうがずっと平和です。 平和ついでにしばらくイギリスさんの寝顔を凝視し、携帯のカメラで何点か撮らせていただいたあと、またじっと見ていたらふと、この格好でこのままソファで寝たら寒いじゃないだろうかと、私はやっと思い至りました。ただでさえ不景気だっていうのに、風邪ひくんじゃないでしょうかね。 気持ち良さそうに寝ているので揺すって起こすのも無粋ですし、私の家だったら適当に押入れから布団を引っ張ってきてかけてしまえばいいのですけど、ヨーロッパの方だとどうなんでしょうね。ベッドの掛け布団って大きいですし。それを勝手にはがして持ってくるのもいかがなものか。こういうときアメリカさんとかフランスさんでしたら、軽々とイギリスさんをかついでベッドまで運んでいけるんでしょうか。…私にだってまあ不可能ではなさそうですけど。たとえば、 朝になって、覚えがないのにいつの間にかベッドで目覚めるイギリスさん → 優雅に「御気分はいかがですか?台所をお借りしましたよ」と言って華麗に朝食を提供する私 → ちょっと照れ気味に「悪かったな」というイギリスさん → いいえ、むしろ図々しくしてすみません、私が好きでしていることですから、どうか悪いだなんて思わないでください」という私 → 「ひょっとしてベッドまで俺をお前が運んだのか?」 → 「ええまあ私も日本男児ですから」 → 「けっこう頼れるんだな」とか思ってしまうイギリスさん …だとかなんとか、そう!そういう展開ですよ!私、漫画の読みすぎですか?でも、これは、私の腹筋が6つに割れるだけの展開よりずっといいんじゃないでしょうか? そう、私だって、日本男子。人間一人をちょっと運ぶくらい、わけないですよ。身長差だって、たかが10センチやそこらです。 しかし果たして眠っている(人間は眠っていると、起きているときより重いはずです)イギリスさんを実際に運べるのかどうか。やってみないことにはわからないわけで。でも無理そうだったらすぐあきらめればいいですし、どのみちこのまま放ってはおけませんから、もし起きてしまってもただ「こんなところで寝ると風邪をひきますよ」と彼に言えばいいわけですし。 ひとまず彼の背中とクッションの隙間に手を差し入れようとしたところ、どういうわけかそのときちょうど彼の目がぱちっと開き、緑色の眼が間近にいる私のほうを向きました。 「…ん?」 「あ、イギリスさん起きてしまいましたか?」 「…うわっ、おっ、おまえ、何やってんだ、ばかっ!!」 「え?ああ、す、すみません!」 大声を出されて、しかものけぞるように、ソファに背もたれ部分によじ登るかという勢いで飛び退かれて、私はついバンザイの姿勢のまま3歩下がってしまいました。何もしてないのにそんなに大げさに驚かれるのもなんだか傷つきますね…。 イギリスさんはため息をつくと、片手で前髪をばさばさかきむしりながら、「いや、別にいいけどよ…でも、せっかくなら、そういうことは、俺が起きてる時にやれよ」と言いました。 「え?」 「…だから、もう別に、こそこそしなくてもいいって」 ちらりと一瞬私を目を合わせた後、ますますうつむいて「わかんねえかな」と言いました。その反応に、なんとなくイギリスさんが違うことを考えてるような予感がしました。もしかして寝てる間にいかがわしい目的で手を出そうとしたとか思われてるんでしょうか。まあ一度信頼失うようなことしている分、反論はできませんけれども…ちょっと心外です。 「あの、驚かせてしまい申し訳なかったのですが、私はただ、イギリスさんが眠って風邪をひかれたらいけないと思いまして、ベッ…布団に運べないかと思っていたんです」 となるべく心を落ち着けて自己申告しました。ちなみに「ベッドまで運ぶ」というと何となくいやらしい響きであるような感じがしたので、布団と言い直してしまいました。どちらも用途は変わらないんですけどね。いやでもベッドって。 私の言葉にイギリスさんは「…あ、ああ?運ぶ?そうか…そうだよな…」とご自分を納得させるかのようにもごもご言ってましたが、急に目がパッチリ覚めたのか、「運ぶって、お前が?俺を?」とこちらを向いて聞きなおしてきました。 「ええ、そうです」 イギリスさんは眉をしかめ、横に立ったままの私の全身を一瞥して「いや、それは無理だろ…」と小声で言います。なんだかその断定口調にすこし腹が立って、「いえ、やってみなきゃわかりませんよ」と返しました。だって、身長だってたったの10センチ程度の差ですし、イギリスさんだって痩せておられるほうじゃないですか。そりゃ相手がアメリカさんでしたら、とても運ぶのは無理ですけど。 「だって、うち、ベッドルーム2階だぞ?階段どうすんだよ」 「……そうでしたか。それは無理ですね」 悔しいですが、自分より大きい人を抱えての平行移動ならまだしも、階段上り下りとなると、バランス崩して落とすところが容易に想像つきます。 私が明らかに落胆したのを感じ取ったのか、イギリスさんは「あ、で、でも階段の下までならいけるかもな!」とフォローしてくださいました。いやでもそれじゃ眠るあなたを階段下までだけ運んでその場に放置するしかできないじゃないですか。だいたい私の当初の目的はあなたに風邪をひかせないようにして、私に意外と頼れる一面があるんだということをあなたに、 「じゃあ、ちょっとやってみろよ」 私が悶々と考えていると、イギリスさんが平然と言いました。 「え?」 「やってみなきゃわかんない、って今言ったじゃねぇか」 確かにそうですけど。「もう運ぶ必要ないのにどうして」とか「寝てる時とは条件変わりますよ」といった私の反論をイギリスさんはさっくり流して、ソファに座りなおし、私を見上げて「ほら、持ち上げてみろよ」と言ってきます。そんな。 おそるおそる彼の背と、ひざ裏あたりに両手をのばします。さっきはイギリスさんが寝ていたから平気だったんですけど、起きていると、急に恥ずかしさのほうが優ってきました。だって両の眼でしっかり見てるじゃないですか、顔が近いじゃないですか。ばかなことを言った自分を後悔しました。それに、今このかがんだポーズをしてみて気づいたんですけど、無理して腰を痛めてしまわないかが心配です。 「ちょっと、この姿勢だと腰が…大丈夫ですかね」 「持ち上げるのはキツいか?でも、こういうのは、乗っかるほうが最初に勢いつけてしがみつきゃ、意外と持つのは楽なんだよな。ちょっと待ってろ」 イギリスさんは立ち上がると私の肩に手をまわして、「じゃあ、俺がお前に飛びつく感じで足をすこしジャンプさせるから、お前はタイミング逃さずに俺の足を抱えろよ」と言いました。 「あ、はい…」 なんだか、当初の「寝ているところを抱きあげる」という意図から大きくそれて、ただのアクロバットになっている気がするのですけど、彼の言葉に従います。それにしても、顔が近いですね。ああ、これじゃ、抱きしめているのと大して変わらないじゃないですか。イギリスさんからは、まだアルコールと、それからなぜか歯磨き粉の匂いがして。それに気を取られないようにしていると、イギリスさんが飛びつくようにしてきたので、すかさず足を抱えるように、膝の裏に手をまわして持ち上げました。 「あ、で、できました…?」 「だろ?」 どうにかこうにか、いわゆるお姫様だっこ、成功…?です。しかし、どうしましょう、予想以上に腕の中に抱えている人があったかくて、顔に血がのぼるのが自分でもわかります。この際、密着度が果てしなく高いことだとか、考えないほうがいいのでしょう。あまり意識していることがイギリスさんに悟られないよう、これはなんらロマンチックな抱擁ではなく、組体操です、ただの組体操!むしろ競技です!と必死に自分に言い聞かせることにしました。 「このまま歩けるか?」 「あ、はい、ゆっくりなら歩けそうです」 「そうか」 イギリスさんは私の首にしがみついたまま、なんとなく嬉しそうにしています。私がその姿勢のままおっかなびっくり歩みを進めようとしていると(擦り足になってしまうので、しっかりと歩けているのかどうかは怪しいところですが)、イギリスさんが「…おい、日本」と、つぶやきました。 「なんですか?」 「お前が、もしこのまま階段下まで運べたら、もちろんちゃんと運べた場合だけだけど、その……してやるよ」 「はい?なんですか?」 「だから……また、キスしてやるから」 「えっ」 情けないことに、その予想外の発言に腕の力が抜けて、私はあっさりイギリスさんを落としました。落としたと言っても、まあ、首にしがみつかれていたので、どさっと落としたわけではなく、足が下にずり落ちた、という程度でしたけど。 「あ、す、すみません、落としてしまって…大丈夫でしたか?」 「いや、別になんでもねぇけど……嫌か?」 私がよくわからないという顔をしていると、イギリスさんは、キス、と小声で付け足しました。顔の近くで言わないでください。ああもう。 「いえっ、あのっ、嫌とかいうより…!」 だめだ、このひと。やっぱりまだ酔ってますよね。口の中を蹂躙された思い出がよみがえり、ふられたことがよみがえり、それからさっきの「嫌じゃない」というセリフがよみがえります。いいっていうんですか?どこまで?背が自分より低くて話がつまらなくて、眠ったあなたすらちゃんと運べなくて、あなたが世界中に言いふらしたくなるくらい性的技術が未熟な男を?嫌じゃないって? イギリスさんは目の前に立って、私の言葉の続きを待っています。ああ、何か言わないと。そりゃ、したくないわけじゃないですけど、酔っぱらい相手のこんな形はなんだかしっくりこないんですよ! 「えーと…私、そういった行為は、賭けのようにすることではないと思いますので…」 イギリスさんは私の言葉を聞くと目を丸くして、「…そっか。それはそうだよな。」と言いました。そのあとも「そうだそうだ」と何度かつぶやいてから、「じゃあ普通に、俺を抱えてベッドまで運べたらお前の勝ちで、失敗したら俺の勝ち。それで負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞く。そういうのはどうだ?」と嬉々として提案してきました。どこが普通なんですか。いきなりとんでもないこと言いだしますね、この人。 「ええと、なぜそんな急に…」 「せっかくなんだから賭けにしたほうが面白いだろ」 「まあそうではありますけど」 「だろ」 「あの、でも、何気に条件が先ほどから変わってませんか?階段があるからベッドまで運ぶのは無理ですよ」 「チッ…そうか、じゃあ…そこのドアまで運んだら、でいい」 今、舌打ちしましたよね。どさくさにまぎれて自分が勝つ条件にしようとしてたんでしょうか。 しかし、不利な条件は修正されたものの、逆にイギリスさんの言う「そこのドア」まではほんの数メートルしかありません。さっき抱えたときにすこし歩けそうだったところを見ると、これではむしろ私に有利な条件です。 「…階段でなくそこのドアまでなら、わりと楽に行けてしまいそうですけど、そんな条件でいいんですか」 「俺はそれでいいぜ。お前、勝った時に俺にさせること考えとけよ」 「え、あ、あの、なんでも…いいんですか?」 「ああ、なんでもきいてやるよ。その代わり、お前ももし失敗したら俺の言うこときくんだからな」 と言って、イギリスさんは不敵な笑みを浮かべました。あ、すっごく悪そうです。自分に有利な条件とは言え、相手は酔っぱらいとはいえ、何かの企みの、嫌な予感がします。やめましょう、そんな意味のない賭けには乗りません、もうおとなしく寝ましょう。と言いたかったのですが、「なんでも言うこときく」という言葉には不覚にもどきどきさせられてしまいました。こんなことはめったにないですよね。 なんでも。なんでもって。どうしましょう。そうですね……メイド服ってありなんでしょうか。英国伝統貞淑系ロングスカートの。あと、ふわふわした帽子の、王室近衛兵とか。もしくはあの、タータンチェックのキルトスカートにハイソックスにパグパイプで、丘の上の王子様みたいなやつとか。絶対、絶対イギリスさん、似合いますよね。絶対、かわいいですよね。膝が見えたりして。ああ。だんだん自分の不埒な妄想にくらくらしてきました。 「おい、決めたか?いいか?」 「あっ、はい、では、いいですよ」 賭けになったからにはもう協力してくれないのかと思いきや、イギリスさんはちゃんと私の首にしがみついてきます。意図がわかりません。ただでさえ私に有利な条件なのに、私が勝つように仕向けてくれるということですか? そうはいっても油断は禁物なので、今回はさらに慎重に歩みを進めることにします。遅くはありますが、イギリスさんが首にしがみついてくれさえすれば、意外と安定していて、落としそうな感じもしません。まあ、完全にお姫様だっこ的な優雅さとはかけ離れているんですけれどもね。 そしてあと3歩くらいでもうドアまで着く、そう思ったところで、首にまわされた手にぐっと力がこめられて、金色の頭が急に近付いたかと思ったら、首筋にぬるっと何か生ぬるいものを感じました。 「えっ」 「…落としたな。じゃ、そういうことで、お前の負け」 あろうことか、首筋に走った感触にゾクッとして、手の力が抜け、イギリスさんを落としてしまいました。いや、そんなことより、今。 「あの、今…」 舐めましたよね?今、私の首のとこ、舐めたっていうか吸いついたっていうか、とにかくそんなことしましたよね?思いっきり妨害行為、チートじゃないですか。でも平然としているイギリスさん相手に「今思いっきりいかがわしく舐めましたよね?」って言うのはなんだか確認できません…。ちょっと当たっただけだろ、お前がエロいこと考えてるからそう思うんだろ、とか言われそうです。 「なんだ?」 「……いえ、なんでもありません。あの、負けた私は何をしたらいいんですか」 無茶なことじゃないといいんですけど。イギリスさんが私に何を望むのか、全く分からないふしがあります。でもそれは、ずっと、私が知りたかったことであるような気もします。 「それは…朝になったら言う」 「えっ、先に内容だけ教えてくださいよ」 「気になるか?」 「気になります」 「だって今言ったって、お前、俺のこと酔ってるだけだと思って何も信用しねえだろ」 そりゃ、今も酔ってると思ってますよ。 「し、信じますよ」 「いや、今は駄目だ。準備もいるし…」 「準備?」 「まあそれはこっちの話だ。とにかくお前には一言ちょっと言ってもらうだけだから心配すんなよ」 「一言だけって何ですか!余計気になりますよ!まさかドイツさんの前でジャガイモを馬鹿にするとか、ロシアさんに向かって『冷血ウォッカ野郎』って叫ぶとか、そんなんじゃありませんよね?」 「そんなわけねーだろ、もっと簡単だ」 簡単って。それでも気になります。 「いいから、気にすんなって。…あ、ちなみにお前は、もし勝ったら俺に何言おうとしたんだ?」 「ええと、私は…あの、イギリスさんに………ィド服を」 本格的英国式メイド服を着ていただいて撮影大会。いやさすがにこれは引かれますよね。冷静に考えると自分でも引きますよ。せめてキルトならセーフでしょうか。 「…服って、ぬ、脱ぐのか?」 「ち、違います!!!」 ちょっと、もう、なんでそういう方向に考えが行くんですか?!イギリスさんがすでにベルトに手をかけているのを見てぎょっとしました。しかもなぜ下から脱ごうとするんですか。 「そうではなくて!…あの、ええと、民族衣装を着ていらっしゃるところが見たくて」 「ああ…なんだ、そうか。どれだ?甲冑とかか?」 「あ、それもいいんですけど、あの、キルトです。正式にはスコットランドさんかもしれませんが」 「キルトって…お前あーいうのがいいのか?」 「いいといいますか、以前見てから、かわいいなと思ってまして」 ふーん、とイギリスさんは言いました。なんとなく恥ずかしくて目が合わせられません。メイド服よりはましかもしれませんが、結局は民族衣装といえどチェックのスカート姿希望だなんて変態だとか内心思われてるかもしれないです。 「…別にそんなんだったら賭けどうこうじゃなくたって明日にでも着てやるよ。一応持ってるし」 「えっ、いいんですか」 「ああ。ただ最近出してねえからどこにしまったか忘れたし、全部揃ってるかわかんねぇから、探す必要あるけど」 「そうですか…あっ、でも、私今カメラ持ってないのでまた今度にしていただいてもいいですか」 「…撮るのか?」 「あ、あの、お嫌でしたらいいんですけど、せっかくなので」 せっかくなのでこないだ新調したデジタル一眼レフ使わせてください。すごいんですよ毛穴まですっごくクリアに映るんですよ。と、みなまでは言いませんが。 「わかった、じゃあ今度な。探しとく」 イギリスさんが目で笑って、今度の約束がさりげなく取りつけられて、組体操だの賭けだのチートだのやっていたわりには、さっきよりずいぶん、雰囲気がやわらかくなっていたことに気がつきました。なんだかよくわからないですけど、いい感じ、なんでしょうか、これは。この感じのまま、次に持ち越せたらいいんですけど。 ちょうどそのときイギリスさんが大きくあくびをしたので、私が「もう、朝までひと眠りしてはいかがですか」と言うと、イギリスさんは「そうだな」と言って、ごく当たり前のように「お前、どこで寝る?」と聞いてきました。このタイミングは…私は寝ないで帰りますとは言えませんよね、なんとなく。そういえばさっきの賭けで負けて私がイギリスさんの言うことを聞くのも、朝になってからって約束でしたし。まあ確かに私も眠いので、仮眠をとらせていただくことにしますか…。 「私はどこでもいいですよ」 「…なら俺のベッ」 「いえ!このソファで十分です」 なんとなくまた変な提案をされそうな予感がして、私は遮るように答えてしまいました。 「じゃあ俺もここにする」 「あの、イギリスさんは私に構わずご自分の部屋でおやすみになって結構ですよ」 「…いや、ベッドだと寝すぎるからな」 イギリスさんはそう言って部屋を出て行ったかと思うと、毛布を両手に抱えて戻って来て「ほら、使え」と、私に一枚ばさりとかけました。ああ、欧米の生活にも普通にこういう毛布があるんでしたら、わざわざ部屋まで運ぶ必要とか全然なかったですね…。 そして、また私から一人分のスペースを開けて、イギリスさんはソファの反対側に座りました。 「…おやすみなさい」 「ああ、おやすみ」 イギリスさんはよほど眠かったのか、持ってきた毛布を頭からすっぽりかぶって、しばらくごそごそ動いて寝るのにちょうどいい姿勢が決まると、そのまま寝入ってしまったようでした。 私もすこし眠らせていただきましょうかね…と毛布を広げていると、目の前の一人掛け用のソファに、刺さったままの裁ちばさみが視界に入りました。そういえばソファひとつ無駄にしたのに、結局今も特に接触のないまま、今夜私たちは組体操まがいのことしかしてませんね。いや、別に、期待したわけじゃありませんけど…。 とりあえず今気になるのは、あの賭けの結果、イギリスさんが私に何をさせるかです。イギリスさんは私に何をしてほしいんでしょうか。たしか、何か言わせるとか言ってましたよね…。私が明日の朝それをしたら、彼の何かがすこしでも満たされるんでしょうか。考えていてもわかりませんけど、それで何かが変わればいいのに、と期待せずにはいられません。 ちらっとイギリスさんの様子をうかがうと、赤いチェックの毛布の隙間からぼさぼさした金髪がすこしのぞいていて、胸にグッとくるものがありました。かわいいという点と、なんだか拗ねたような格好で寝ている点についての、二重の意味で、です。結局、イギリスさんのさびしさは癒せたんでしょうか。いくら雰囲気がよくなったとはいえ、それは単なる結果論で、私は結局イギリスさんのために自分からは何もできていない気がします。自分のためにはしっかり携帯で寝顔撮ったりしてるくせに。ああもう。私って…。 イギリスさんが酔っ払っているところにつけこむようなことは嫌ですけど、少しくらいは私もウイスキーの力を借りて、普段とは違うことでも思い切って言えばよかったですね。もう遅いのかもしれないですけど。でも、あんなにすっぽり毛布かぶって寝るだなんて、せっかくここにいるのに。こんなのよりも、もっと、そう、たとえば、こないだみたいな、ああいう感じで。 「…あの」 「うん?」 イギリスさんはとっくに寝たかと思ってましたが、私がかけた小さい声にすぐ返事がきました。 「私が今勝手に考えたことなので別にイギリスさんの御都合が悪ければ全く無視してかまわないんですけれど」 「なんだよ」 イギリスさんがかぶっていた毛布から顔を出しました。 「これは依頼とか希望ではなくあくまでただの一つの状況に対する提案であって何も強制しているわけでもありませんからそこのところも把握しておいていただきたいのですけど」 「…だから、何の話だって」 遠回りしすぎてだんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきました。私の言い方にイギリスさんがイラついてきているのじゃないかと思うと、焦ってますますわからなくなります。 「えーと…あの…つまり、イギリスさんさえ嫌じゃなければなんですけど」 言え、言うんです、私、今なら相手だってアルコールと眠気のマジックで、あとになればろくに覚えちゃいません。 「…私は今夜はイギリスさんのクッションになる必要はありますか」 そう言って私がなるべくやわらかい笑顔をつくり、毛布をめくって自分の膝を叩くと、イギリスさんは眉をしかめて、一瞬わけがわからないという顔をしました。これは、この反応は、たぶん……完全にハズしました。またやってしまいました。脳内をブリザードが吹いて、瞬時にすべてを凍らせていくのを感じます。何なんですか私。寒すぎます。もう記憶喪失になりたいです、あなたの記憶も飛ばしたいです、今のは忘れてください忘れてください忘れてください。いやもういっそのこと、一息に死にます。腹切って死にます! 私が両手で顔を覆って、頭の中で荒れ狂う後悔と羞恥の津波と戦っていると、「おい」と頭をつつかれました。顔を上げるといつの間にかそこには顔を真っ赤にしたイギリスさんが立っていて、「そ、そんなに、お、お前がどうしてもって言うなら、な!」と言いました。そんな。そう言われてしまったら、私には「どうしても」って答える以外、選択肢がないじゃありませんか。 >>オーマイバレンタイン |